6.偶然出会った老紳士の”働き方”

6.偶然出会った老紳士の”働き方”

齊藤: インディペンデント・コントラクター(IC)といえば、

          アメリカで働いていた時のことなんだけど、

          「こういう働き方もあるのか」って、思った人が

          その会社に「たまたま来る」という経験もしていて。

— 偶然の出会いですか?

齊藤: 若手のベンチャー企業をサポートしている

          年配のおじさんたちがいて。

          それはどういう人たちかというと、

          比較的大企業で管理系の仕事をしてきた、

          役員とか経験した人たち。

          一方、ベンチャー企業って人のリソースが不足しているじゃない。

          だから、おじさんたちが、軌道に乗るまで経理担当するよ、

          カリフォルニア州の最低時給で仕事するよと。

          その代わり、ストックオプションちょうだい、

          っていう支援の仕方をしていて。

— へーっ、おもしろいですね。

齊藤: そう。で、その中のひとりで、

          経理部長を経験してきた人が、社長の知り合いにいて。

          本当に、たまたま僕のいた会社に遊びにきたの。

          社長が、「ちょっと忙しいから、その人のはなし相手してて」

          って、雑談していたら、そういう仕事だって聞いて。

          「へー、そういう働き方があるんだ」って。

          その人は、複数の企業を同じ形でサポートしていてね。

          最終的に応援した企業が大きくなったり、

          上場したらリターンがあるし。

          何より、自分の応援した企業が、成功する、育てるっていう。

          社会貢献にもなるし、お金と入る、リターンもくると。

— わぁ、なんかいいですね。

齊藤: 実をいうと、これから日本でもリタイアした人たちが

          インディペンデント・コントラクター(IC)として働き方を

          考えた時に、そういう形もあるのかなって思っている。

          なので、ICとして独立する時に、このおじさんのことを思い出した。

          すっかり、忘れていたんだけど、

          ICの「働き方」を考えた時に、思い出した。


          *IC(インディペンデント・コントラクター)とは、

          サラリーマンでも、事業家でもなく、

          フリーエージェントである働き方。

          “期限付きで専門性の高い仕事”を請け負い、雇用契約ではなく

          業務単位の請負契約を“複数の企業”と結んで活動する

          “独立・自立した個人”のこと。

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4.車内広告との出会い

4.車内広告との出会い

— 結構、思い立ったらパッと行動するタイプなんですね。

齊藤: まぁ、そうですね。

          あまり損得考えずに動くかもね。

          それよりも、先を見据えて行動するみたいな。

          それが、正しいかどうかは別として。

          あと、ストレートに行くわけではなく、

          方向性を変えたりもしているので。

          だけど、「先にある何か」を実現するために、

          「今、なにをするか」を考えて、行動するっていうのかな。

          で、アメリカで仕事をしたい、って思っていたところ、

          アメリカのビジネス交換プログラム

          があることを、偶然知って。

          定期的にテストをしているって、情報を得たんだよね。

          合格したら、アメリカで働くための

          ビザを発給してくれるプログラムで。

          今もあるのかな?

          インターナショナル・インターンシップ・プログラム

          を提供している組織だった。

  

— それって、どこで見つけたんですか?

齊藤: 電車の中の広告。

          それで、すぐ電車を降りて、電話して。

          「来週、試験と面接ありますよ」って言われた。

          急いで、資料取り寄せて、試験受けてって感じ。

   

— 見つけたのも、すごく偶然ですよね。電車の中って。

齊藤: そうだよね。

          で、ちょうどその試験が出張と重なってしまって。

          それで、当時の上司に、

          「ちょっと、こういうことを考えているので、出張にいけません」

          って話しをして。

          それが、「辞めます」っていう意思表示だったというか。

          でも、その時には、落ちるかも知れない状況だった。

          結果的には、無事に合格してビザの発給をしてもらう

          資格を得ることが出来たんだけど。

          で、その次。

          実は会社は辞めたんだけど、

          アメリカで働く先は、自分で探さないといけなくって。

          それを見つけるまで半年かかって。

  

— えっ?!仕事は日本で探したのですか?

齊藤: そう、日本で。

          全部、じぶんで調べた。

          アメリカから出張で来ていた人と面接受けたり、

          色々な人に、こういうことを考えていると話しをしたり。

          で、ある時、そういう人を受け入れてもいいよと、

          ある会社を紹介してもらって。

          それが、アメリカのサンディエゴにあった

          ファッション系輸出ベンチャーの会社だった。

  

— この会社は何を扱う会社だったのですか?

齊藤: MAGIC(全米最大のアパレル展示会)とか、

          ASR(アクション・スポーツ・リテイラー)とか、

          どちらもアメリカのラスベガスや西海岸で行われている国際的な

          アパレルおよびスポーツの見本市なんだけど。

          その展示会に、世界からバイヤーが買い付けにくるでしょう。

          そこで、バイヤーのアテンドをして、買い付けをサポートして。

          色々な会社に注文をして。

          最終的には、バイヤーが自分の国に輸入するんだけど、

          その買い付けと輸出を請け負っている、

          世界のファッションチェーンの買い付けをサポートする会社。

          シッパー(輸出業者)ともいうかな。

          そういう会社、今でもいっぱいあるけど。

          その中のひとつに入れてもらって。

          そこで1年間、日本人ひとりしかいない環境で働いた。

  

  

  

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2.絶対、商社マンになる

2.絶対、商社マンになる

—  どんどん商社への夢が近づいてくる過程で、他に目がいったり迷いが出たりはしなかったんですか?

齊藤: うん、そうですね。

          逆にアルバイトでお金貯めて、3年生のときから海外旅行に

          いったりして。中国や香港にもいったね。

          あと、主にアメリカだけど、叔母の影響もあって、

          海外には、安くていいものが沢山ある。

          日本は、高いけどクオリティはあまりよくないって、

          そんな印象があって。

          安くて良いものをいっぱい輸入して

          「日本をもっと豊かにしたいな」って考え始めた。

 

—  海外へのあこがれから商社を目指して働きたい、そう思う動機がだんだん形になっていったんですね。

齊藤: それまでは、漠然と商社に憧れていたのが、もう少し絞られて

          「消費財がいいな」って。

          商社を目指す学生って、世界を舞台に大きな仕事がしたいって

          志望することが多いんだけど。

          ぼくは最初から消費財を扱いたいと思っていたので、

          結構珍しがられた。

          そんなことで、実際の就職活動では色々な業界は見たけど、

          きちんと受けたのは商社だけ。

          総合商社はほぼ全部、中堅も含めて商社だけ受けていた。

          しかも、「消費財を扱いたい」、

          「日本を豊かにしたい」っていう志望動機が珍しがられて。

 

—  商社志望だと、海外に行きたい、プラント建設とか大きな仕事で活躍したいって理由多かったですよね。

齊藤: そうそう。だから、面接でのウケはよかったよ。

          それで、運良く総合商社に内定もらって。

 

—  実際、商社志望で就職活動してみて、挫折感とか味合わなかったですか?競争率もすごいですし。

齊藤: うん、当時の就職活動って、今みたいにシステマティック

          でなくて、自分でOB見つけて電話かけまくって、

          60社くらい行ったかな。

          「昼飯おごってもらえる」っていうのもあったし。

          この時くらいしか色々な会社の社会人と話をできる機会は

          なかったので、必死で会ってくれる人を見つけた。

          ただ、挫折感というと正直、第一志望だった総合商社はダメだった。

          6人くらい次々にOBに会うことは出来たけど、本選考には入れず。

          もう一度、一般枠で受けたけど、

          その時点ではほとんど決まってた、っていうことで入れなかったね。

          だから、当初、総合商社の中で入りたいなって

          思っていた2社はダメで、

          最終選考までいったのは別の3社だったかな。

          で、ご縁があったのはトーメン(現 豊田通商)だったと。

          その総合商社は何年ぶりだったかな、

          10年ぶりくらいに2人明治大学から入ったという感じだったけど。

 

—  最終的には目標だった総合商社の内定を得て、入社することになった訳ですね。

齊藤: そうですね。それで、今度は消費財を扱う部署なんだけど。

          当時、その商社ではドラフト制度があって、

          「どこの部署で働きたいか」って

          内定をもらった学生がプレゼンするんだよね。

          そのドラフトで、食品・食糧・衣料を希望して、当時の衣料部の

          部長が目をつけてくれて衣料部に配属になったんだよね。

 

—  希望通り消費財を扱う部署に入ることができたんですね。

齊藤: そうそう。

          あと、これは就職活動とは別の経験だけど、

          大学3年生の時受けた授業で

          ”アントレプレナーシップ”

          起業家精神が経済を活性化させるという

          アメリカの事例を使って説明された授業があって。

          実は、それが学生の自分にとってはすごく刺激的で、

          印象に残っていて。

          だから、商社に入ってもそれがゴールではなくて

          「社長になる」とか

          「自分で独立して何かしてみたい」っていうのが、

          次の目的として出てきた時期でもあったかな。

 

—  ”アントレプレナーシップ”って、その頃は今ほど、言葉自体知られていない感じですよね。

齊藤: そうですね。

          でも、その時に、40歳で社長になるっていう目標を漠然と持って。

          今でも、当時の上司に会うと、

          「君は新入社員の時にトーメンの社長になる」と言ってたよなって。

          その時は、そう言ってたけど入ったら分かるでしょ、

          40歳で社長って無理だって。

          そのくらいの勢いで入社してきて、

          「不思議なことをいう奴だな」と思われていた。

 

          まあ、漠然と40歳で独立起業、

          あと、55歳でセミリタイアをするんだと、

          なんとなく考えていて。

          あと、もうひとつ。

          50歳くらいで自分の書いた本を出したいな

          っていうのもあって。

          そうやって「先のことを考えながら」

          「今なにをやるべきか決めている」

          このスタイルは小学校の時から続いていて、

          今に至っているのかな、っていうところですかね。

 

 

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3.消費者の顔が見えない仕事

3.消費者の顔が見えない仕事

— 総合商社の頃は、時間に忙殺されていたというか、そんなこと考える余裕がなく日々が過ぎ去っていくみたいな。みんな過酷な環境に置かれていた気がするんですけど。

齊藤: あっ、そうですね。

          働いている間は、その通りでしたね。

          そんなの忘れてたというか、考える余裕はなかった。

          けど、入社当初はそんな思いを持っていたんだよね。

          実際に担当を持って、本格的に動き出すと、

          もう、それどころじゃない状況だったけど。

          だから、働き出した20代のころは忘れていたかな。

          それよりは、「目の前のこの仕事をどうしよう」と

          そういうことだけを考えていたかな。

        

— そうですよね。毎日がバタバタでしたよね。

齊藤: 確かに、そうでした。

          あと、もうひとつ。

          働き始めた20代のころの経験としては、

          「関連会社に出向させてもらった」

          ことが、自分にとって大きかったと思う。入社3年目4年目で。

          商社は川上だけど、川中っていうか、

          百貨店や専門店のスポーツショップに商品を卸す企業だったので。

          そこで、色々な会社から出向で来ている人と仕事をする経験をした。

          それが、他の世界を知るというか、

          今考えると、いい経験になったな、というのがありましたね。

        

— その後、最初に配属された本社の衣料部に戻られたんですよね。

齊藤: そう、それでその後、もとの部署に戻って。

          バブル崩壊の影響が襲ってきてた。

          国内生産から、アジアで安く、大量生産する形。

          海外生産にだんだん移ってきて。

          そこで、数を追っかける大量生産大量受注の取引先と

          付き合っているうちに、在庫のリスクの怖さに気がついた。

          発注するけど、なかなか引き取ってくれないリスク。

          最初のオーダーが10万枚とか、すごい数で。

          感覚が麻痺してきちゃったのかな。

          それに追われると、在庫をあまり見なかった。

          というか、気にする余裕もなかった。

        

— 当時、いろいろな取引先の在庫が社内でも問題になってきた時期ですよね。どの担当者もそんな感じでしたね。

齊藤: バブルの崩壊の前は、国内生産がメインだったし、

          安いものよりは、高くていいものを求める傾向が、

          どこのメーカーにもあったけど。

          バブル後は、値段が厳しくなる、品質も厳しくなる、

          引き取りも厳しくなる、というのをすごく実感して。

          デザイナーやマーチャンダイザー(MD)と言われる立場の人が、

          途中で仕様変更を繰り返すようになったりして。

          そうすると、品質不良のリスクも高まるわけで。

          そういう在庫や品質不良のことに追われているうちに、

          商品を最終的に良し悪しの判断して購入するのは、お客様なのに、

          そういう間にいる人たちが、色々こねくり回したりして。

          それって、

          「本当に最終ユーザーのこと考えてやっていることなのかな」

          って、疑問が湧き始めた。

          そういうことが多々起きるようになってきて、

          「こんな消費者から遠い所で仕事していたら、

          また在庫の山を作っちゃうのではないか」って、

          そんな思いがこみ上げてきて。

          「もっとリテール(小売)志向にならないといけないな」って。

        

— 消費者に近い所での仕事ということですか?

齊藤: そうですね。

          ちょうどその頃、社内でも

          リテール(小売)志向に目が向いてきたというか、

          店舗を持っている取引先と付き合うような動きがでてきて。

          勢いのあるところとやっている連中も出てきてたよね。

          で、僕らもそういう取引先を開拓したいなと思いはじめて、

          もうちょっとリテール(小売)志向な仕事をしたいと。

          そんな願望を持ちながら仕事をしていた時期だったかな。

          それが、「もっと前に出ていかなければいけないな」

          と思った転機というか、消費者に近いところで仕事がしたいなと、

          商社を出て行こうかなと考え始めたきっかけかな。

      

          あとは、これもちょっと無謀な考え方なんだけど。

          アメリカへ出張に行くと、感じていた想いがあって。

          アメリカのリテール(小売業)を実際に見たことによって、

          小学生の頃に感じていた

          「安くて良いものを日本に紹介したい」という想い。

          それが、ずっと心の奥にあって。

          まあ、誰にいってもバカだって言われたけど。

          総合商社を辞めて、

          「アメリカにいって仕事したい」という思いが出てきて

          10年目、32歳の時に、実行しちゃったんだよね。

 

— それは、次の目標が見えて行動したいって、気持ちが強くなったという感じですか?

齊藤: うん、そうですね。

          アメリカに行って小売の仕事をしてみたいという。

          今やっていることのけじめがついたら、

          辞めて、次に行こうという。  

 

— 小売と取引しようではなく、小売の世界に入ろうということなんですね。

齊藤: 結果的にはそうなったって感じだね。

          まあ、たぶん、実家がリテール(小売)をやっているって、

          そういうことが、関係していたのかもしれないけど。

 

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1.「これしかやらない」って決めて突き進むこどもでした

1.「これしかやらない」って決めて突き進むこどもでした

—  いつ頃から「将来の仕事」について考え始めましたか?

齊藤: 学生時代、明治大学の商学部なんですが。

          もっと遡ると高校時代、商学部しか受けないと決めていて。

          これから話すこと全体に通じるんですけど

          「これしかやらない」と決めると、それしかしないという、

          そういう傾向が学生時代からありまして。

  

—   その学生時代って、具体的にはいつ頃ですか?

齊藤: 先のこと考えるようになったのは、小学生かな。

          将来の夢みたいな作文を書かされた頃から、将来どうするか考えて、

          6年生に書いた作文では「地球の裏側で牧場経営」

          みたいなこと書いたかな。

          でも、現実の世界では、ぼくはインテリアショップの息子で、

          ファミリーストアの1店舗経営。

          だから、作文の最後には、現実的には店をもっと沢山つくって

          全国に広げて、みたいなことを書いていた。

  

—  ご家族から話をされていたからとか、そういう影響ですか?

齊藤: それは全くない。自分で考えていたね。

          それが今の仕事に繋がっているかというと、

          関係あるような気もするけど。

          でも、小さい時って親や家族の影響ってとても大きかったと思う。

          父親はひとりで経営していて、小売業の店主の背中は

          小さい時からみていた。

          インテリアショップなんだけど、一番売り上げのメインは

          カーテンやカーペットのオーダーメイドの受注販売で、

          その縫製を母親がミシンを使ってやっていて。

          母親は結婚前、館山の文化服装学院の講師をしていたから、

          今思えば、実は、服飾系に関係した血筋なのかなって。

          小さい頃からミシン踏んでる母親と、店頭に立って

          販売している父親と、2人の背中を見て育ってきた。

  

—  無意識のうちに、そういう姿が「働くこと」として認識されていたんですね。

齊藤: あと、うちの叔母が横田基地のタイピストをやってたの。

          当時、同居していて、英語がしゃべれたのと、

          家にいるときはずっとFENのラジオ放送を聞いている人でね。

          基地でしか手に入らないアメリカのジャンクフード

          買ってきてくれたりして。

          そういうことから、結構、海外への憧れがあったかな。

  

—  当時としては珍しいことですね、それは刺激を受けますね。

齊藤: それで、実際に仕事のことを意識し始めたのが、高校生。

          当時、商社が舞台の「ザ商社」ってテレビドラマがあったのも

          影響してると思うけど、海外で仕事をしたい、

          海外で仕事をするなら、商社だなと意識するようになっていた。

          それで、商社に入るにはどうしたらいいのかって考えて。

          今思えば他の学部の人も入れるんだけど、

          商学部で勉強するしかないって勝手に思い込んでいて。

          商学部に絞って受験した。

  

—  それは、高校生のときですよね。先生には相談したんですか?

齊藤: いや、勝手に決めてたの。相談していたらもっと色々な

          選択肢もあったと思うけど。

          これだと思ったら結構決めて、絞り込んじゃう所があって。

          2校、しかも商学部しか受けなかった。

          で、明治大学の商学部に合格して、ちょっと浪人しようかなとも

          考えたけど、先生に現役で明治大学に行ったほうがいいよ、

          と勧められて。

  

—  きっかけは思い込みからだったけど、無事に商学部に入学したんですね。

齊藤: そうですね。

         「就職先は商社」と決めて、そのために商学部に入学して。

          商社に行くにはどんな科目を取ったらいいのか考えて、

          国際経済、貿易関係を専門にした先生のゼミにも入ってた。

          それから、語学も必要だなと考えて、必須の英語以外に選択科目で

          4年間英会話のクラスも取って、スペイン語会話っていうのも

          2年間やったかな。世界の民族音楽っていう教養ゼミも取ってたね。

  

  

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