4.産学連携と博士号への挑戦
— 取材の対象が変わったら、今までと違う視点を持つようになったりしましたか?
山本:もちろん違ってきますが、「視野が広がる」といった方が適切かもしれません。
今は大学・産学連携と科学技術行政を担当していて、「科学技術がベース」という意味では以前と同じです。ただ研究者の取材よりも、大学は組織としてどう戦略を立てるか、国の政策はどうすべきか、というテーマが中心で。国の予算編成の記事も手がけます。
もっとも、仕事の基本的なポイントは変わらない。例えば、新しい情報を取ってくるとか、それをどういう風に分かりやすく伝えるかといった点は共通している。それまでのノウハウを活かすことになります。
— 取材対象が変わるというイメージですかね?
山本:そうですね。以前は教授など個々の研究者への取材が中心でしたが、大学の学長や理事、最近は文部科学省などの官僚というケースが増えました。
官僚の場合も「メディアをどのように活用するか」といった切り口で、私たちと付き合う面を持っているんですよ。企業取材で直面する広告宣伝の意識とは少し違うけれども。
「自分たちがやりたい」、「日本のためにこれが重要だ」と思うことを、どう社会に理解してもらうか、その伝達手段としてメディアをとらえている。中でも、財務省に理解してもらって予算を獲得するというのが、官僚の重要な仕事なので、その辺を意識した対応になりますよね。
— 社内での担当の変更は、イメージ通りに進んだのですか?
山本:30代後半に「産学連携」「産学官連携」という言葉が出てきて、その担当記者になりました。
2004年に国立大学が、文部科学省の下部組織ではなく独立した法人に変わる大転換があって。「国立大学は企業と連携して社会に役に立つ技術を発展させ、その対価として特許収入や研究費を得るようになる」「そのため産業界と大学、さらにサポート役の官庁が、刺激し合って新たな価値をつくりだす産学官連携の活動が重要だ」ということで、新たな担当の記者を置くことになったのです。
科学技術には強いけれど、大学などの教育系は手薄だった新聞において、以前はなかった担当ができた。そこに「はまった」のが、わたしにとっては大きかったですね。大学の役割、つまり研究、教育、産学連携または社会連携という、全体をみることにつながっていったんです。
— 普通はどうなっているんですか。
山下:メディアの記者は一般に、「科学技術担当」と「教育(大学を含む)担当」が別なんですよ。科学部の記者と、社会部の記者とに分かれている。でも私は理系の大学院を出ているし、それまでの担当からして、両方の視点を持つことができる。感覚的にわかることも含めてね。
例えば文部科学省の産学連携施策に対して、大学の研究者や企業の取材経験やつながりがあるので、「そちらの視点からみてこの施策はどうなのか」と考えられる。これは強みになりました。
— 取材だけではなく、つなぎ役みたいな役割もしたりするんですか?
山本:その役割は大きいと思います。わたしは産学官連携というまさに「異なるセクター・機関の連携による相乗効果」を取材対象としているだけに、実感しました。この3つの中に入って、それぞれに取材をして、話を消化したうえで、社会に発信する。
「あの幹部がこんなことを言っているのか」、という情報が、文化も価値観も違う産と学と官のコミュニケーションをよりよくしていく。単に右から左へ、情報を流すのとは違うんですよ。新しい仕組み自体を回すことに、メディアが重要な役割を果たしている、という意識かな。
— その後、社会人で記者の仕事をしながら博士過程に進んでいますよね。これが大きい変化になったりしましたか?
山本:そうですね。博士号がなくても、科技と大学の両方の視点は持てたとは思うんです。でも、大学などの研究者養成で必須とされる博士号取得の取り組みを、実際に知ることができたのは大きかった。
記者は普通、取材によって「これは重要だ」と感じたことを記事にする。だけど、「自分のよく知る問題で、社会にとっても重要だ」ということを記事にする方が、力が入るじゃないですか。
— 社会人大学院に通おうと思った動機って何かあったんですか?
山本:理系出身で、博士号に漠然としたあこがれがあっただけ。だけど産学官連携で担当が長くなって、振り返ると、専門記者になってきた。
産学官連携は新しい分野だったから、「研究テーマになるかもしれない」「憧れの博士号がとれるかもしれない」って。そんな具合でした。
— 産学官連携を研究テーマにしてみようと思ったんですね。
山本:その時は、研究をしたいというより、「博士号を持つということは、自分のキャリアとして大きいな」って考えて。
新聞記者って、ジャーナリストなんていってカッコよさそうだけど、実はただの会社員。記事の扱いなど決定権は上司にあるし、転勤や異動も嫌でも従わざるを得ないし。それで、もっと自立したもの、自分の個が持ちたいなという気持ちがあったんです。
「産学官連携の担当という新聞記者は、日本で私しかいない」「私にしか書けない記事を発信している」という意味では自信があった。だけどもうひとつ、博士号を持つということをやってみたい。そうすることが、自分にとってプラスになるだろう、と思ったんです。
— ドクターにチャレンジしたのはいつ頃ですか?
山本:始めたのは40代の初めです。研究職ではない社会人が、博士号を取るというのはものすごく難しいです。
理工系での研究はもちろんできない。社会科学の経営学や経済学もかなり厳しい。現役学生でも6年間、在学して学位取得断念が珍しくないほど。だからかなり慎重に、大学院と指導教員を選びました。
— 簡単ではないんですね。
山本:仕事と直結したテーマでなければ、博士の学位はとても無理。私もそうでなければ、チャレンジはしていないですね。
幸い新しい分野だったので、「仕事の取材と、研究の調査を直結させるのであれば、できるかな」と。普段の取材の中で課題や仮説をみつけて、それについての取材がヒアリングの調査になって、得られたものの大半を記事にして。週末に、それらを統計解析するなどして、研究・論文の形にしていくという感じ。3年半で取得にこぎつけました。
— 仕事と研究が繋がっていたんですね。
山本:わたしの場合は、大学院の博士課程の経験が、再び仕事に活かせているんです。「博士教育とは」ということを、自ら経験したので。
— 具体的にはどんな部分が繋がっていますか?
山本:例えば、論文の投稿っていうと、「研究の仕上げとして論文投稿する」ってイメージするでしょう。
でも、実際はそうではないんです。指導教員に「いいんじゃない」って言ってもらって投稿したのに、査読する先生が「こんなデータでは甘い」、「これはあなたの独りよがりだ」「裏付けがまったく不足」とまぁ、めちゃくちゃに批判が来るんです。それに対してひとつずつ説明して、データが足りないっていわれたら追加で調査して。何回も改訂した原稿をやりとりするんです。
— 厳しい指導を乗り越えないといけないんですね?
山本:論文査読による教育というのが、実はすごく大きい。
自分の指導教員はOKでも、少し領域が違う研究者にはダメといわれちゃう。他の研究者の意見に耐えられる研究に仕上げる、ブラッシュアップしていく。「そうか、こういう形で教育しているんだ」、「これを乗り越えることが、博士の学生に課せられているんだ」って体験して初めて、知りました。
博士号審査は一般に、「査読付き論文が3報あること」といった条件があるんですけど、それは「他分野の人も説得できる研究論文を書く能力がある」って意味で必要なんですね。一般に知られていない博士の人材育成を体験できたことは、その後の取材にもすごく役立っていると思います。
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