7.スペシャリストでゼネラリスト

7.スペシャリストでゼネラリスト

— マスコミ志望の学生って多いと思うんですけど、学生時代にやっておくといいなって思うことありますか?

山本:そうですね、とりあえず関心と経験、知識を幅広くというのはありますかね。

あっ、そうだ!

  

— 何か思い出しましたか?

山本:昔のマスメディアでは、
「幅広く、専門性などない方がいい」
「とにかく夜中まで働ける奴がいい」といった傾向がありました。 

それが今の時代は、そうでもなくなってきているのではないか、と。

文章を書いて発信することが、メディアのプロでなくても可能になって、注目を集めるひとも出てきていますよね。

  

— ブログとかSNSですよね。

山本:そうです。

その中で「どこにプロの意義があるのか」と考えると、記者の専門性が重要になると思うんです。

例えば専門外の人が気づかない切り口で、解説記事が書けるか、問われてくるのではないでしょうか。

わたしがよく使う言葉として

「スペシャリストでゼネラリスト」というのがあります。

スペシャリストとしての強さを持ちながら、ゼネラリストとしての視点も持っている人が重要だと思うのです。
 
昔は企業の中では、文系のひとがゼネラリストで、コミュニケーション力を発揮して、経営を担う。

理系のひとはスペシャリストで、研究開発に専念していればよく、コミュニケーション力は問わない、といった具合だった。

今は違います。両方持っているひとが求められている。

そのことは学生にも、若手の社会人にも意識してほしいですね。

  

— お話全体の印象として、チャレンジはする気質は持っているし、実際に挑戦しているけれど、ベースのところは慎重に、それがあるから今があるような気がしました。

山本:そうですね。

自分の弱みを、体力がないことを含めてよく自覚しているからだでしょう。

強いひとだとガンガンやって大きく転けても、すぐ立ち直れる。一方で、弱いひとは弱い人なりにやらなきゃいけないということで、慎重な部分を持っているんだと思います。

でも弱いひとは「もうだめ」といいながら長生きする、みたいなしぶとさも持ちうるんじゃないかな。

  

— 若いうちから自覚を持っていた感じなんですね。

山本:東京工業大学の大学院に入って、男子学生は徹夜で実験するけれど、自分には無理だと思った、っていうのはありますね。

  

— 男性ばかりの環境にいると溶け込まなきゃ、同じように馴染まなきゃって行動に出てしまいがちな気もしますが。

  
山本:たしかに「多数派である男性の仲間に入れてもらわなくちゃ」っていう意識は、大学院進学やメディア就職のときにはありました。

でも、私は性格的にもさほど強くないし、同じにはできない、とわりと早く悟りました。

「馴染まなきゃ」って意識は、自信がないからでしょう。若い頃は仕様がないかもしれない。

年齢が上がってキャリアを積んでいくと、
「別に一緒でなくていいんじゃない」という余裕がでてくる。

キャリアを積んで自信を付けてからの方が、育休や時短勤務をしやすいのも、同じことかと。

あと、学部がお茶の水女子大で、女子大だったのも大きいと思うんですよ。

  

— 共学化が進む傾向の時代になぜ、女子大なんですか。

山本:高校は共学でしたが、理系で男性が多勢という環境でした。

クラスで何かをするといったら、男子がリードするのが当たり前。何も変に思いませんでした。

ちょっと関心ある事柄に対しても、男子の動き見てから参加を決める、という具合で。

伝統的な社会ではそういう女性は少なくないはず。

でも女子大だと、気にする相手となる男子がいない。「じゃあ、私が委員長やろうかな」って、躊躇なく手を挙げられる。

レポートで困っていたら助けてくれるとか、
実験の重いボンベを運んでくれるとか、そういう男性がいない。

全部、女性がする。

教授クラスも今は、男女半々だそうです。

性別を考えないですむ環境だからこそ、自分らしさを自然に発揮できるようになるんだと思います。

  

— 学生でも若手社員でも、女性の方が男性より元気があって優秀だ、ってよくいわれますけれど。

山本:複数の層があるんでしょう。

一つは、男性との競争に何ら問題のないアグレッシブな女性のグループ。

昔から大学、官僚、メディア、国際機関などに、ごく少数だけどいました。

でも自信家が多い男性と比べ、女性は心配性で
「私なんてだめだ」って思いがちだといわれます。

私自身もそうです。

「大丈夫、大丈夫。これまでのいくつもの壁を乗り越えてきたのだから。自信を持って」って、いつも自分に言い聞かせているんですから。

ほおっておいてもやっていける層以外の女性は、女性だけの環境に置かれることで、

「私にだって、できる」
「周囲の意見は参考にはするけれど、自分で決めるんだ」

という主体性が育まれるんじゃないかな。

女性の活躍推進は、トップ層を厚くすることと、
すでに厚みがあるだけに大いに成長してほしいこの層と、両方なのです。

  

— 「みんなと一緒でなくては」って焦って縛られている意識を

「自分の個性は何なのか、強みは何か」という方向に向けることが大事なんですね。

山本:それがわかれば、自分に価値があると気づけば、自信を持ってほかとは違う形での仕事ができる。
 
それは生来の能力だけによらなくて、作っていけるものなんですよね。

キャリアを積むというのは、今の力を掘り下げたり、新たな挑戦をしたりして、自らの社会に対する価値を高めていくことなんでしょう。

  

— なにか最後に言葉、メッセージいただけますか?

山本:さっきのあれがいいですね。

「スペシャリストでゼネラリスト」。

これ、わたしは入社した時の、新入社員紹介の冊子で口にしているんですよ。

研究職は自分にはできない、という学生の時のショックから、そう考えたんでしょうね。

大学院時代の同級生はほとんど皆、研究職でスペシャリストになった。
一方で新聞社はゼネラリスト志向。
だから、その両方を、と。

一昔前はどちら一方が強ければよかったけど、今は多くのひとでこの2つが必要とされている。

両方の視点を持つ人こそが、社会をより豊かにしていけるのではないかと思っています。

  

— 新入社員の時に、その意識があって言葉にしていたんですね。今日は、いろいろお話を伺えて楽しかったです。ありがとうございました。

   

   

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6.慎重、かつ大胆に

6.慎重、かつ大胆に

— 小説は断念とのことですが、その後に本を2冊出版されていますよね。

山本:最初はまったくダメだったんですよ。

博士号取得の後に、研究テーマとした
「産学官連携のコミュニケーション」で本を、と狙っていたのですが。
博士研究の一方で、出版社の編集者の知り合いを増やし、期待していたのですけれど。
 
近年は、出版業界もビジネスが厳しくなる一方で。
相談のメールを1本、出しただけで即、不可の返事が来るありさまでした。

社内の出版局にも「このテーマでは売れない」って断られました。

  

— 本を出したい人は多いと思うのですが、出版社に受けてもらうのは簡単でないんですね。

山本:「私の企画が悪いというより、出版不況のためだ。仕方がない」と開き直って、しばらく放っておきました。

その後、うちの新聞の読書欄で新刊書の著者インタビュー記事を書いたことをきっかけに、先の編集者の一人が声をかけてきまました。

「この本は私が担当したのですよ。お礼方々、情報交換しませんか」と。

  

— 敗者復活、ですね。

山本:会ってアイデアを出し合ううちに、本の内容を
「科学技術全般のコミュニケーションに広げれば、いけそうだ」となって。

前回は、各出版社や編集者のタイミングがよくなかった、とか、そういうこともあるんだろうと思い直しました。

こうして「研究費が増やせるメディア活用術」という初著書を、丸善出版から出すことができました。

2冊目は「理系のための就活ガイド」。

どちらも技術を核にもつ理系人の活動を、後押しするためのノウハウ本です。大学の非常勤講師でもこの内容を、若い人に伝授しています。

  

— 新聞記者が書く書籍って、どんな感じなんですか?

山本:朝日新聞や読売新聞など、一般紙の科学技術記者の場合、
「科学ジャーナリズムとは」といったものを好むようです。

高尚で、少し学術的で、読む人が限られているテーマです。

私が意識したのは、
「科学でなく技術」
「高尚なものでなくて、使えるノウハウ」。

理系の専門家に対して、
「こうやったらあなたの研究の、あなた自身の、よさを一般に広く伝えられますよ」っていう内容です。

前に「OJTじゃなくてマニュアル化すればいいのに」
っていいましたが、ノウハウとかマニュアルとかは、
どんどんそろえて大勢が活用すればいい。

基本的なやり方がわからないために、損をしていちゃもったいないから。そのうえで、その人独自の創造的なことに取り組む。

その方が社会にとって、よりよいものが生み出せると思うんです。

  

— 何れの活動も、最初からダメってしないで、とりあえずはチャレンジしてみる姿勢は貫いていますよね。

山本:実はどの挑戦も、背水の陣とはしていないんですよ。

今の仕事をキープしながら、トライしているんです。試した方がとてもいいとわかればキャリアチェンジをしてもいい。

元の仕事や生活を続けるにしても、一段上の質をつくりだせてるようになる、と考えていました。
 
「慎重かつ大胆に」って姿勢が重要だと思うんですよ。

慎重なだけじゃ、いつまでも変われない。大胆なだけでは、時に大失敗をしてしまうから。

  

— 女性って結構、過去をスパッと切って「新しい世界へ」っていう傾向がある、といわれますけど。

山本:確かにそうですね。

悩みを周囲に話すことなく、いきなり退職しちゃうとか。思い切りよく、ぱっと留学しちゃうとか。
 
そういえば過去の恋愛の扱い方でも、男女の違いがあるっていいますね。

パソコンのファイル保存になぞらえて、
男性は「名付けて保存」で、過去の思い出を大切にとっておく。
でも女性は「上書き保存」で昔の相手は忘れてしまう、って。

それから、いざという時、
女性は仕事を捨てて家庭に逃げ込むことができる、
という考えもあるでしょう。

心身に不調をきたすほど苦しい時には、確かに「別の選択肢がある」というのは救いになる。

でも、もう少しがんばるべきところで、逃げてしまうという危険性を持ち合わせてもいる。

  

— そちらに行かなかったのは何か理由があるんですか?

山本:どうでしょうね。
仕事を辞めるということは考えませんでしたが…。
育った家庭は会社員の父と、専業主婦の母という形でしたから、
「時代」なんでしょうかね。

均等法の直後に社会へ出て、
「女性もこれから、生き生きと働けるようになる」
と思える社会環境ではありました。

だから「仕事は、自分をつくっていくものだ」という考えは強く持っていた。

でも一番は、
新聞記者がおもしろい、
自分に合っていると思ったから、
手放す気にならなかったということかな。

もし社会に出たての時の仕事が辛かったら、どうなっていたかわからない。

  

— キャリア初期の経験って大切ですね。仕事が楽しいものだと知る意味でも。

山本:年長女性でよい仕事をしている人は皆、
「紆余曲折を経て、途中の大変さもすべて自分の糧にできた人」
だと感じます。

仕事への意識が、男性のように単純ではない。
だからこそ深く考えて、自分に合った形を築くことができるんじゃないかな。

仕事だけでなく、プライベートでもそうで、
辛いことを乗り越えて来たことが、今の自信につながっている。

キャリアってそうやって構築していくものだと思います。

  

— こういった視点が、今のポジションやキャリアを作っているベースにあるんですね。

山本:わたしのポジションは管理職ではないんですよ。

論説委員というのは、記者職の中の上級職ではあるのですが。独立してビジネスをしている人や、芸術家と似ている面があるかもしれません。

一般に企業における成功って、
大勢の部下を持ち、
予算や決定権があり、
給与が高いということをイメージするでしょう。

その意味で成功しているかどうか、にこだわる必要は、ないと思うんです。

「これは社会にとって絶対に重要だ」
ということを仕事で採り上げられるかどうか。

その意味で、重要な仕事をしているという誇りは強く持っています。

   

   

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5.キャリアの危機を振り返ってみると

5.キャリアの危機を振り返ってみると。。。。

— 順調に記者としての経験を積まれてきた印象を受けるのですが、実は、そうではない、見えていない部分で苦労されたことってありますか?

山本:大きな流れとしては悪くないですが、実はけっこう不安定ですよ。

「このところ仕事が思うように進まない」とか、「こんなのはやりたくない」とか、「職場の誰それと何度もぶつかる」とか、しょっちゅうです。

でもこういうストレスは、どんな仕事でもあるものでしょう。なんとか共存していくしかない。

   

— キャリアの危機って考えると何かありますか?

山本:「キャリアの危機」って表現、面白いですね。なんでしょう。「悔いが残るようなキャリアの転機」ってことかな。
 
私の場合は32ー33歳の頃ですね。公私ともに悩みが押し寄せてきた。

仕事の悩みなら、社内外のメンター、つまりメディアや科学技術の分野の親しい年長者からのアドバイスが有効で、たいていはそれで乗り越えてきました。プライベートの問題も、身内や友人と話す中で模索していける。

でも両方が重なったので苦しかった。

   

— 仕事とプライベート、両方ですか?

 

山本:そうです。

企業担当になってまもなく、上司が厳格な人に変わりました。ミスや文章の仕上がりなど毎日、怒られっぱなし。

「おかげでだいぶ鍛えられた」と今ならいえますけどね。企業担当のため他メディアとの競争も激しかった。

胃がひどく痛み、薬も効かなくて参りました。

   

— ストレスが大きい時期だったんですね。

山本:ちょうどその頃、結婚したので、仕事でもプライベートでも変化の時でした。

ちょっとユニークな組み合わせだったこともあり、早くこどもを持って、憧れのワーキングマザーになりたいと思いました。

ですが、それがかなわなくて。詳しくは省略しますけれど、ひどい心理状態になりました。

   

— それでも仕事は続けていたんですね?

山本:仕事を辞めることは、考えなかったです。

基本的には記者の仕事はおもしろかったし、「体力のない私でも両立できる職場環境を整えられたぞ」と思っていましたから。

とりあえず出産となれば、しばらく職場で休みがとれる。それで公私ともに好転できるのではないか、と思いこんでしまった。

若いときは、「これしかない」って思いがちですから。結果的には、さまざまな見方を受け入れたり視点を変えたり、長期戦になりました。

   

— 長引くのは辛いですよね。

山本:後半、「今回の件はどうやらうまくいかないらしい」と思うようになった。

それで「自分がエネルギーを注ぐ対象としては、やはり仕事しかないのか」と思い直したんです。すると、「こどもがいないなら、別の選択肢も考えられる。

もしかしたら、別の仕事の方が、私には向いているんじゃないか」ってなっちゃいました。

   

— 新聞記者以外にですか?

 

山本:これもまた、憧れみたいなものだったんですけど、「小説を書く」っていうのがありました。

文章はずっと好きでしたし。

それで4年ほど、講座に通って、原稿用紙100枚程度の小説を書いてみたりしました。

   

— 小説家になる講座ですか?

山本:そうです。もしも上手くいったら…と想像しましたが、これもまた、向いていないとわかりました。

小説家は、とてもとんがった感覚が必要で。ちょっと普通ではおつきあいできような面もある。変人です。それでないと、刺激的なものは創造できないんだ、って実感したんです。

   

— なんか分かる感じがしますけど。

山本:私らしさを考えると、それはちょっと違うかな、と。

私は社会的な感覚がそれなりに強いと思う。同じ文章を書く仕事といっても、“科学技術と社会の間を繋ぐ活動”の方が、自分は向いている、って分かりました。

   

— こちらも数年かけての取り組みですね。

 

山本:ある程度の期間、努力してみて、難しいとわかった。

「そうか、神様は私をそっちに導こうとしていないんだな。そっちじゃないんだな」と納得しました。

こどものことも、小説のことも、30代終わりに区切りをつけられました。結果的には前の形に戻っただけだけど、前向きに“卒業”するところまで持っていけた。

「いろいろ考えて取り組んで、納得して、区切りを付ける」という姿勢が身についたんです。これは私の辛かった30代の収穫です。

   

— もし、これらの希望がかなっていたら、どうでしょう。

山本:どちらも憧れが実現して、記者の仕事と両立となったとしたら、私は仕事が“そこそこ”になっていたのではないかと思います。

でも、そうならなかった。その結果として、科学技術と大学の記者として1ランク上の仕事に取り組むことができた。

夢は叶える努力をするものだけど、叶わないこともある。

本当の意味で大人になるに連れて、だれもが実感することですよね。

それに「これが一番、いい」なんて本当のところ、わからない。両方同時にやってみて、選ぶということはできないのだから。

私の場合は、きっとこれでよかったんです。まあ何事も、人生はそう思うしかないですよね。

 

   

   

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4.産学連携と博士号への挑戦

4.産学連携と博士号への挑戦

— 取材の対象が変わったら、今までと違う視点を持つようになったりしましたか?

山本:もちろん違ってきますが、「視野が広がる」といった方が適切かもしれません。

 今は大学・産学連携と科学技術行政を担当していて、「科学技術がベース」という意味では以前と同じです。ただ研究者の取材よりも、大学は組織としてどう戦略を立てるか、国の政策はどうすべきか、というテーマが中心で。国の予算編成の記事も手がけます。

 もっとも、仕事の基本的なポイントは変わらない。例えば、新しい情報を取ってくるとか、それをどういう風に分かりやすく伝えるかといった点は共通している。それまでのノウハウを活かすことになります。

— 取材対象が変わるというイメージですかね?

山本:そうですね。以前は教授など個々の研究者への取材が中心でしたが、大学の学長や理事、最近は文部科学省などの官僚というケースが増えました。

 官僚の場合も「メディアをどのように活用するか」といった切り口で、私たちと付き合う面を持っているんですよ。企業取材で直面する広告宣伝の意識とは少し違うけれども。

 「自分たちがやりたい」、「日本のためにこれが重要だ」と思うことを、どう社会に理解してもらうか、その伝達手段としてメディアをとらえている。中でも、財務省に理解してもらって予算を獲得するというのが、官僚の重要な仕事なので、その辺を意識した対応になりますよね。

— 社内での担当の変更は、イメージ通りに進んだのですか?

山本:30代後半に「産学連携」「産学官連携」という言葉が出てきて、その担当記者になりました。

 2004年に国立大学が、文部科学省の下部組織ではなく独立した法人に変わる大転換があって。「国立大学は企業と連携して社会に役に立つ技術を発展させ、その対価として特許収入や研究費を得るようになる」「そのため産業界と大学、さらにサポート役の官庁が、刺激し合って新たな価値をつくりだす産学官連携の活動が重要だ」ということで、新たな担当の記者を置くことになったのです。

 科学技術には強いけれど、大学などの教育系は手薄だった新聞において、以前はなかった担当ができた。そこに「はまった」のが、わたしにとっては大きかったですね。大学の役割、つまり研究、教育、産学連携または社会連携という、全体をみることにつながっていったんです。

— 普通はどうなっているんですか。

山下:メディアの記者は一般に、「科学技術担当」と「教育(大学を含む)担当」が別なんですよ。科学部の記者と、社会部の記者とに分かれている。でも私は理系の大学院を出ているし、それまでの担当からして、両方の視点を持つことができる。感覚的にわかることも含めてね。

 例えば文部科学省の産学連携施策に対して、大学の研究者や企業の取材経験やつながりがあるので、「そちらの視点からみてこの施策はどうなのか」と考えられる。これは強みになりました。

— 取材だけではなく、つなぎ役みたいな役割もしたりするんですか?

山本:その役割は大きいと思います。わたしは産学官連携というまさに「異なるセクター・機関の連携による相乗効果」を取材対象としているだけに、実感しました。この3つの中に入って、それぞれに取材をして、話を消化したうえで、社会に発信する。

 「あの幹部がこんなことを言っているのか」、という情報が、文化も価値観も違う産と学と官のコミュニケーションをよりよくしていく。単に右から左へ、情報を流すのとは違うんですよ。新しい仕組み自体を回すことに、メディアが重要な役割を果たしている、という意識かな。

— その後、社会人で記者の仕事をしながら博士過程に進んでいますよね。これが大きい変化になったりしましたか?

山本:そうですね。博士号がなくても、科技と大学の両方の視点は持てたとは思うんです。でも、大学などの研究者養成で必須とされる博士号取得の取り組みを、実際に知ることができたのは大きかった。

 記者は普通、取材によって「これは重要だ」と感じたことを記事にする。だけど、「自分のよく知る問題で、社会にとっても重要だ」ということを記事にする方が、力が入るじゃないですか。

— 社会人大学院に通おうと思った動機って何かあったんですか?

山本:理系出身で、博士号に漠然としたあこがれがあっただけ。だけど産学官連携で担当が長くなって、振り返ると、専門記者になってきた。

 産学官連携は新しい分野だったから、「研究テーマになるかもしれない」「憧れの博士号がとれるかもしれない」って。そんな具合でした。

— 産学官連携を研究テーマにしてみようと思ったんですね。

山本:その時は、研究をしたいというより、「博士号を持つということは、自分のキャリアとして大きいな」って考えて。

 新聞記者って、ジャーナリストなんていってカッコよさそうだけど、実はただの会社員。記事の扱いなど決定権は上司にあるし、転勤や異動も嫌でも従わざるを得ないし。それで、もっと自立したもの、自分の個が持ちたいなという気持ちがあったんです。
 
 「産学官連携の担当という新聞記者は、日本で私しかいない」「私にしか書けない記事を発信している」という意味では自信があった。だけどもうひとつ、博士号を持つということをやってみたい。そうすることが、自分にとってプラスになるだろう、と思ったんです。

— ドクターにチャレンジしたのはいつ頃ですか?

山本:始めたのは40代の初めです。研究職ではない社会人が、博士号を取るというのはものすごく難しいです。

 理工系での研究はもちろんできない。社会科学の経営学や経済学もかなり厳しい。現役学生でも6年間、在学して学位取得断念が珍しくないほど。だからかなり慎重に、大学院と指導教員を選びました。

— 簡単ではないんですね。

山本:仕事と直結したテーマでなければ、博士の学位はとても無理。私もそうでなければ、チャレンジはしていないですね。

 幸い新しい分野だったので、「仕事の取材と、研究の調査を直結させるのであれば、できるかな」と。普段の取材の中で課題や仮説をみつけて、それについての取材がヒアリングの調査になって、得られたものの大半を記事にして。週末に、それらを統計解析するなどして、研究・論文の形にしていくという感じ。3年半で取得にこぎつけました。

— 仕事と研究が繋がっていたんですね。

山本:わたしの場合は、大学院の博士課程の経験が、再び仕事に活かせているんです。「博士教育とは」ということを、自ら経験したので。

— 具体的にはどんな部分が繋がっていますか?

山本:例えば、論文の投稿っていうと、「研究の仕上げとして論文投稿する」ってイメージするでしょう。

 でも、実際はそうではないんです。指導教員に「いいんじゃない」って言ってもらって投稿したのに、査読する先生が「こんなデータでは甘い」、「これはあなたの独りよがりだ」「裏付けがまったく不足」とまぁ、めちゃくちゃに批判が来るんです。それに対してひとつずつ説明して、データが足りないっていわれたら追加で調査して。何回も改訂した原稿をやりとりするんです。

— 厳しい指導を乗り越えないといけないんですね?

山本:論文査読による教育というのが、実はすごく大きい。

 自分の指導教員はOKでも、少し領域が違う研究者にはダメといわれちゃう。他の研究者の意見に耐えられる研究に仕上げる、ブラッシュアップしていく。「そうか、こういう形で教育しているんだ」、「これを乗り越えることが、博士の学生に課せられているんだ」って体験して初めて、知りました。

 博士号審査は一般に、「査読付き論文が3報あること」といった条件があるんですけど、それは「他分野の人も説得できる研究論文を書く能力がある」って意味で必要なんですね。一般に知られていない博士の人材育成を体験できたことは、その後の取材にもすごく役立っていると思います。

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3. 「夜回り」って何ですか?

3.「夜回り」って何ですか?

— 20代のころに失敗した経験とか、今考えると大変だった事ってありますか?

山本:大変だった経験ですか…。

 駆け出し記者のころは、「こんな記事を書いてはいけない」とか、「こういう表現では取材先からクレームがくる」ということがわかっていない。プラスの事例を日々、吸収することに頭がいっぱいで、マイナスの事例を知らないまま。そのために危ないことがありました。

— 例えばどんなことでしょうか。

山本:ある時、某企業の製品安全性の研究について、学会発表に基づいて取材に行き、素直に執筆しました。したつもり、でした。

 ですが、私の表現では、その社が、安全性に問題のある製品を販売し続けているように見えてしまう、と指摘されました。

 また、記事にするタイミングが遅くなると、取材時とは状況が変わってしまうということも、いわれるまで気づきませんでした。大学や公的研究機関の取材に比べて、企業の取材の時はこのあたりに注意が必要です。

— 大学の取材では感じることがなかったものなんですね。

山本:大学の研究成果の記事は基本、明るい内容でしょう。

 「◯◯を開発しました! 将来、△△が可能になる期待が持てそうです」という具合で。企業間の競争とも離れているし、社会部記者が扱うような関係者が対立する内容もあまりないので、クレームがくるなんて考えたことがなかったんですよ。

 この手の右往左往はみんな一つや二つはあるでしょう。もちろんトラブルばかりでは問題ですが。先輩や上司に相談しながら体験して、OJTで身につけていく。その側面が強い業界ですね。

— 記者のキャリアパスってどんなイメージなんですか?

山本:一般的に記者の担当は3年くらいかな。一般紙だともっと早くて2年とか。半年というケースもある。

 異動まで短いのは、昔ながらのジャーナリスト育成としての考え方によるんですね。広く浅く。その分野でのスペシャリストではなく「ゼネラリスト」を志向するから。

 わたしの場合、入社して6年間は、研究成果の取材で主に大学関係を担当して、会社の担当になったのが20代終わりの方。業界は化学と、食品でした。ビジネスの業界担当は社として重要だったので、希望して移りました。

— 取材の仕方も変わったんですか?

山本:もちろんですよ。大手企業の取材がメインだから、他メディアとの競争も激しくて。

 象徴的なのは「夜回り」でしょう。

 公式の席では聞けないことを夜、社長らの自宅に行って聞く、それを夜回りっていうんですけど。昼間の取材では聞けないけど、周りに関係者がいなければ、「まあ、こういう感じなんだよね」と話してくれることがある。それを期待して行く。

複数の幹部から聞き集めれば、その状況から記事にできるので。

— 「ピンポーン」って自宅に行くんですか?

山本:そう。「社長、ご在宅でしょうか?」って。で、まだ帰ってないって言われたら、しばらく家の前で待ってみる。でも、居留守を使われることもある。

 行って会えないのを「空振り」って言うんですけど、「しょうがない、また明日やってみるか」と思って帰宅。その翌朝、ポストの前で「◯◯新聞に出てる!」と頭に血が上ることもある。

— 本当にあるんですね、そういうのって。

山本:今も、担当記者は大物案件で夜回り、もしくは早朝に自宅へ向かう「朝駆け」をやっていますよ。スクープの快感を想像しながら。

 新聞記者の面白さのうち、もっとも他ではできないことって考えると、これかもしれない。非日常でどきどき、わくわくする。だから、夜回り大好きの記者もいます。

— そういう取材は最初にどうやるんですか? それもOJTですか?

山本:OJTです。先輩にくっついて行って、やり方を見て、自分で考えるようになっていく。

 緊張するし、疲れるし、「やりたくない」っていう気持ちも強い。スクープなんて、できない可能性の方が圧倒的に高いし。

でも若い頃は「大変な仕事はやらない」って選択肢はない。「これはやらなきゃいけないことだ」っていう感じで引き受けるでしょう。新聞記者だからがんばらなくちゃ、と思って、行っていた。

 でも、まあ落ち着かないですよね。人によって向き不向きも強く出るでしょうね。年長になると、そんなパワーもなくなってくるし。

— 誰もが通る道でもあるんですね。

山本:思うんですよ。

「記者のいろはを、もっとマニュアル化すればいいのに」、「専門技術の教科書みたいに、文書で示されていれば助けになるのに」って。

— マニュアルって存在していない業界なんですか?

山本:現場で個々に作成するものはあったとしても、組織的なものは、用語集くらいしかないでしょう。

 そういうことはしない業界ですね。それより「とにかく現場に行って、話を聞いて、とりあえず原稿を出してみろ。その中で学んでいけ」みたいな。身に付けていくノウハウを含め、やり方は各人によってけっこう違う。

 メディアも会社組織だけど、普通の会社に比べて、個々の活動や判断を重視する面が大きいと思います。

— いまITがこれだけ一般的になって、属人的に情報を囲う時代から、共有することに価値を置く時代に変わってきた気がするんですけど。

山本:私もそう思います。

 昔、マスメディアや記者は、社会的な評価がすごく高い特権階級だったんですね。要人に会えて、貴重な情報にアクセスできて、その中から選別して社会に発信できるというのは数少ないメディア人のみ。ウェブがなかった時代、どの家庭も新聞を購読していて、通勤電車で相当数の人が新聞を広げていた。

 逆の立場で言うと、社会にアピールするには、「メディアに採り上げてもらう以外の方法はなかった」状態で。

 記者に希少価値があって、やりがいがあるから、優秀な人材が集まる。中には著名になって、フリーのジャーナリストとして独立する人もいる。そんなことから個人主義も強かったのでしょう。

— ウェブで大きく変わったんですね。

山本:あらゆる業界がウェブが激しく変わって、マスメディアはとくに大変です。新聞を読む習慣が激減しているから。新聞の権威より、電子メディアの口コミ情報の方が頼りにされている面がある。

 ウェブを使って、記者と同様の仕事をする人が格段に増えたわけでしょう。だからOJTでノウハウを囲い込むのでなく、共通化した方がスムーズにいく部分があるんじゃないかな。その中で差別化を図らなくてはいけない、そういう難しい時代になっていると思います。



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1.典型的な理工系の学生でした

1.典型的な理工系の学生でした

— 就職を考えるようになった時期は、いつ頃ですか?

山本: 就職の思案をしはじめたのは修士1年ですが、その進学を考えたという意味では学部4年の初めです。今と比べると就職活動スケジュールは一般に遅かったのですね。私は、典型的な理工系の女子学生でした。授業にはちゃんと出て、大変だと騒ぎながら実験してレポートを書いていました。

 実験はあまり上手じゃなかったのですが、数式よりは実験の方が「楽しい」って気持ちがあって。学部4年生は有機化学の研究室に入りました。 

 学部卒が88年なのに対して、男女雇用機会均等法の施行が86年でした。だから、社会の動きを敏感に感じ取って、もっとあれこれ考えていてもよかったのに、と今なら思います。でも、その頃はそういうことは頭の中になかったみたいです。

 やっぱり何て言うのかな、学生の時って本当に自分のごく周りのことしか知らない。社会全般の動きなんて、わかっていない状態だなと振り返ります。

— みんなそんな感じですよね。狭い世界、周りの世界の中で考えて動くみたいな。大学としては、進学を選ぶ方が多いのでしょうか?

山本: 「当時の私の所属では」という限定ですが、1/3が進学、2/3が就職というイメージでした。

 その時は、職種として「研究職に就きたい」って思っていたので、「それなら進学した方がいいよ」という周囲の声を受けて、「修士に行こう」と悩まなかった。だから、学部の頃は職業についての意識が頭の中になかったのだと思います。

 4年生でサークル活動も離れて研究室に入ると、世界はそれまで以上に狭くなりました。女子大は、男女の役割を意識せずに活動できるよさはあるけれど、少しのんびりしている印象があって。研究者になるなら、「男性とともにバリバリと頑張る環境で研究していく方がいいかな」って考えて、外の大学に行きました。

— 修士の時に他の大学に進学したんですね。

山本: はい、お茶の水女子大学から、修士は東京工業大学へ進みました。

 それで、修士課程の1年目ですね。そこでもう早速キャリアの転機を経験したんです。

— キャリアの転機ですか?

山本: そうです、大学院にいって「研究職は向いていない」って実感したんです。学部の頃は「実験は下手だけど好き。好きが一番」だと思ってやっていたんです。

 だけど、修士の時の実験は本当に上手くいかないて。1年経ったところで、「めぐり合わせもあるから、研究テーマを変えよう」って、指導教員に言われました。それが、私にはものすごくショックだったんです。

 1年間頑張って、我慢して続けてきたのに、ダメなのか、と。研究職に向いている人は、こういう展開になってもショックを受けない人なのではないか、と思い当たったのです。

— そうですね、1年目から上手くいくテーマに巡り会える可能性も低い世界ですよね。

山本:そうなんですよ。

 1年を無駄にしたといっても、修士の学生であれば「卒業させないよ」ってことにもならない。それほど深刻な状況ではない。「こういうやり方ではうまくいかない」というのも、重要な知であり、それを見つけるということも研究においては意味があること。だから問題は、「本人がそれを辛いと思うかどうか」だけです。

 考えてみれば企業なんて、簡単には進まない研究開発をずっと続けているわけですよね。医薬品はその典型でしょう。それこそ、「自分が関わった案件は、定年まで続けたけれど、商品化につながらなかった」ってこともありえる世界ですよね。研究に取り組む、そのこと自体をおもしろいと思える人が、研究職という職業を全うできるのだと思うんですよ。

— 今だから言えるという話でもありますよね?

山本:そうですね。

 でも、この経験を経て、「好きなだけでなく、向いていることをする」というのが、仕事を考えるうえでの新たな指標になりました。研究職は仕事のスパンが長いのも、「自分には合わないな」と思った理由の一つです。研究職は無理、でも科学技術関係のことはやりたい。短期間で集中してできることはないかなと、別の仕事を考えるようになったんです。

— それは、修士課程1年目の時ですか?

山本:修士1年が終わるころ、就職を考え始める時期でした。困ったなあ、どうしよう、って。

 「どういう仕事があるかな」って考えるにしても、当時は今のようにウエブなどで情報を多く集められる時代ではなかったので悩みました。科学技術の財団とか、科学系の雑誌・書籍の出版や新聞とか。理科の教科書・参考書を作成する出版社も思案しましたね。

 その中で、新聞社に興味を持って。

— 新聞記者という職種にですか?

山本:新聞記者志望の人は、マスメディア、報道に関心がある文系の学生が多いと思います。でも私はそうではなく、理工系で社会と関わりを持つ職として、「新聞記者という選択肢があるのか」と気づいたという感じです。

 だから、一般紙よりは専門紙。専門紙の中では産業全般を対象にして比較的、幅の広い日刊工業新聞がいいなって思って。結果的に、その判断が、自分にはよかったと思っています。

— その時の選択が正しかったんですね。

山本:傾向として、「周囲がいいと言うもの」より「自分がいいと思うもの」を大事にする、選ぶという意識があるかもしれません。新聞記者を考える時に、そういう軸が自分の中にあって。

— 学生の頃から、そういう意識を持っていたんですか?

山本:そうですね。でももっと小さい頃はどうだったかな。

 優等生は一般に「何でも、がんばって、なんとかやっちゃう」面があるでしょう。成績も悪くない。選択肢が多いのはよいことだけど、その結果、進学や職業を考える時、周囲の期待や意見に押されて決めてしまう。

— 何でも器用にこなせるけれど、それは「好きなことではない」みたいな感覚ですね。

山本:「好き、嫌い」や「できる、できない」だけでなく、「自分らしく自然体で力が出せて、ハッピーなものは何か」っていうのを考える必要があるかなって思います。

— その財団、教育、出版とか新聞業界を考えたのは、どういう経緯からですか?当時、ご自身で思いついたんですか?

山本:「思いついた」に近いですね。

 それぞれの業界で仕事されている方に話をうかがいました。科学技術系の出版では大学の先輩も探せましたし。今の日刊工業新聞社でも、若手女性記者に話を聞くチャンスを設けてもらいました。

— 実際に話を聞いてみてどうでしたか?

山本:マスメディアを候補に考えた時に、私は体力がないことが一番ネックだと思っていました。
 
 それで、一般紙は厳しいなというのがありました。専門紙は会社向けの新聞なので、土日に叩き起こされて事件現場に出向く、といった取材はあまりないという話で、「私にもできるかな」と思ったんです。

 あと、新聞記者になれなかったとして、社内にはいろいろな部署がありますよね。イベントや展示会、本などの局もあるし、広告営業のセクションもあるし。どこに配属されても、何かしら科学技術に関係しているということで、この会社を選んだのです。

— 新聞記者でと確定していたのはなかったんですね?

山本:採用は全社一括でしたから、わかりませんでした。また最初から、「これだけ」って対象を狭めない方がいいとも思っていました。これは仕事一般についてそうですね。

 「自分に合ったこと」っていっても、必ずしも最初からピッタリ合うものが見つかる訳ではなく、経験したり挑戦したりしながら、見つけ出していくんだろうなって思いますね。

— マスコミって人気があって、しかも新聞社に入るって、すごい倍率をくぐり抜けてっていう印象があるんですが。

山本:大手の一般紙の競争率はとても高いと思いますよ。日刊工業新聞は専門紙なので、それほどではないのですが、文系のジャーナリズム志望の方が多いことは一般紙と同じですね。

 そういう意味でいうと、わたしは理工系の研究職から志望を変えてきていたので、他の方と違っていて。一般紙は入社試験も受けませんでした。

— 思い描いたストーリーで、上手く進んだ印象ですか?

山本:「専門紙の新聞記者が最適かもしれない」と見つけたことは大きかったです。自分の核となるものを把握できた。そこに達するまでは悩んだけれど、その後はまあ上手く進んだといえるかな。 

 当時はバブル期の終わりだったので、全体として就活が大変というイメージではなかったです。もっとも、研究室の仲間は、メーカーの研究職に引っ張られて実質、無試験で決まっていく中、わたしは採用試験の準備をしていましたが。

 あの頃は入手できる関連情報が限られていたこともあるんですけど、就職活動で、「実際にその仕事をしている人に会って話を聞く」というのは、すごくいいなって実感しました。

— OB,OG訪問みたいな感じですね。

山本:ウェブで検索して気になる企業を調べることも必要ですが、職業を実感する点では、当事者から話を聞き出すのがおすすめです。仕事が格段にイメージし易くなるし、不安に思っているところも解消できますから。

 ただ、そこで会った人は、その会社のひとつのモデルでしかないことに注意が必要です。できれば複数の人に話を聞くようにしたいですね。

— 山本さんも、話を聞いてみて、想像していた新聞社の仕事と、イメージが合致して選んだってことですよね?

 
山本:そうです。「これなら、体力がない理工系出身の私でも、出来るかな」って心が固まってきました。

 一般紙の場合、記者はやはり体力も必要で、常にとパワー全開で進んでいく感じ。一般的には、大手の一般紙の方がいいって周囲のだれもが言うでしょう。でも、「自分らしく働くことができるのかな?」って不安に対して、私は別の選択をしました。

 「自分に合っていて自然体で力が発揮でき、幸せだと感じられるか」という視点は、キャリアや生き方を考える上で、とても大切だと思っています。


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山本 佳世子さんプロフィール

山本佳世子さん

山本 佳世子(やまもと かよこ)さん

1964年生まれ。
現職は日刊工業新聞社論説委員・編集局科学技術部編集委員。
東京工業大学ほか非常勤講師。
お茶の水女子大学理学部卒。工学修士(東京工業大学)。
博士(学術・東京農工大学)。
記者として活躍しながら社会人で博士号を取得。
科学技術報道(化学、バイオなど)、
業界ビジネス報道(化学業界、飲料業界)担当を経て、
現在、大学・産学連携、文部科学行政を担当。
産学連携学会:業績賞受賞(2011年度)。

 

<著書>

研究費が増やせるメディア活用術(丸善出版)

理系のための就活ガイド(丸善出版)