5.保育園争奪戦、これが現実でした

5.保育園争奪戦、これが現実でした

— それで会社を辞めて、子育てに専念したんですね?

池照:はい、半年くらい。

         

— あれ、半年で復帰ですか?

池照:そうなんですよ。 

         たまたま、ファイザーがグローバルで

         ダイバーシティのプロジェクトを始める時で、

         日本でも新しくやっていく担当者を採用しようとしていたんです。

         

         その時、採用担当だった方がわたしの名前を覚えていて、

         「そう言えば、池照さんってどうしてるの?」って

         エージェントに連絡があったそうです。

         でも、まだ息子は6ケ月でしたから、

         「少し無理なので」と伝えたところ、

         話だけでもと言っていただいたんです。

         

 

— お話しを聞いてみてどうでしたか?

池照:もちろん子供と24時間向き合える時間も 

         素晴らしい経験ではありましたが、

         ちょうど「今後のこと」をぼんやりと考え始めた頃でした。

         お話を聞きに行ったら、ダイバーシティのプロジェクトや

         女性の支援制度をどんどん作っていきたいし、

         そういう役割を担ってほしいということだったんです。

         そこで考えたのが、

         「あっ、そうか。

         自分が当事者になっているんだから、いい機会なのかも」って。

         

— まさに、ご自身が必要としている制度だったんですね。

池照:はい。 

         それから、もう一つ。

         今までの会社では、現場に張り付いて

         採用から評価、報酬と、あれもこれも、

         全体を担当することが多かったんです。

         大変勉強になりましたし、それが楽しかった。

         それが、ファイザーは規模が大きいこともあり、

         人事の機能ごとに担当をつけているんですね。

         一つのテーマや機能を深めていくような、

         そんな形での仕事も経験してみたいと素直に感じました。

         まず、母親として当事者であるし、

         それに関連したテーマの仕事でもあるので、

         これはぜひ挑戦してみたいと思いました。

         結局、入社したのは数ヶ月後ですが、

         働くための準備をスタートさせました。

         

— 準備は順調に進みましたか?

池照:当時、ファイザーには、時短制度はまだなくて 

         これから作っていくところでした。

         フルタイムで働くと6時までが就労時間だったので、

         フルタイムのオファーを契約社員にしてもらい

         5時で帰ることで仕事を始めました。

         当初は、

         「せっかく正社員のオファーなのに」と言われたりしましたが、

         ここで試したかったことがあったんです。

         

— 試したかったこと?

池照:はい。 

         それは、「どう働くか」よりも、

         どう「生きたいか」で働き方を選ぶこと。

         でも、不安はいっぱいでしたよ。

         

— 必然的に、「その形」でしか両立できない現実があったんですよね?

池照:その頃、ファイザーには

         働くお母さんは何人かいらっしゃっいましたが、

         両親双方の親が遠方で「手が借りられず」という方は

         知る限りいなかったんでです。

         

— そういう方々とは、正社員として働くための環境が違っていたんですね。

池照:そうなんです。

         それで、その時、採用してくださった方に言ったんです。

         「わたしには近くに両親や頼れる親戚もいない」

         「子育ては、わたしと旦那でやらなきゃいけない、

         でも旦那は、出張も多い。

         はっきりいって、やっていけるかどうか不安です」と。

         

— どんな答えが返ってきましたか?

池照:そしたら、彼が

         「池照さんみたいな人が仕事を続けられるっていう

         仕組みを作らないといけないんじゃない」って。

         「人事としてあなたが作らないといけないんじゃないの」って、

         言われて。

         私も単純なんですが、妙に納得しちゃったんです。

         「だったらやってみようかな」って、その言葉に。

         「どう生きたいか」に挑戦できるかもって。

         

 

— 仕事と子育てを両立。実際やってみてどうでしたか?

池照:保育園を見つけるのが大変でした。

         いわゆる「待機児童」というやつですが、

         育休をとってからの復帰でもなく、

         いったん会社をやめて再就職ですから、

         区の規定ではポイントも低いということで

         全く保育園に入れずでした。

         

 

— 今もニュースで話題になってますね。

池照:そうですね。

         でもいい機会である、とも考えました。

         自分はこれからワーキングマザーのための仕組み作りをする。

         私が困っているということは、

         こんな風に困る人がぜったい出てくるはずだって。

         本当に、どこも決まらなくて、保育ママさんとか、

         シッターさんとか、使えるものは何でも使いました。

         保育ママさんにお願いしていた頃は、

         まだ首が座るか座らない感じの赤ちゃんで、

         車に乗せて、保育ママのところまで1時間かけて往復し、

         それから電車に乗って会社行って。

         帰りもまた、うちに戻って車に乗って迎えにいくみたいな、

         それをずっと、繰り返していていました。

         東京の比較的真ん中に住んでいるのに、そんな状態です。

         

— 「保育ママ」ってなんですか?

池照:ご自宅で近所の子供たちを預かるっていう

         仕組みがあるんです。

         行政やNPOなどが紹介してくださる形になっていましたね。

         

— そういう場所があるんですね。

池照:あとは、お金はかかりましたが

         ベビーシッターさんにもお願いしていました。

         とにかく、その当時考えられる保育サービスは

         全て試してみました。

         自分が経験すれば、社員の方が困った時に

         何かアドバイスできるかも知れないし。

         でも、保育園には入れなくって。

         結局、半年して入れたのが認可でなく認証保育園。

         やっと、そこで空きがある感じでした。

         でも、月10万円も掛かるんです。

         

— えっ、高い!?

池照:そうなんです。

         月々10万円かかる保育園に通わせるって、

         誰でも使える訳ではないですよね。

         そこは、24時間対応だったので、CAさんとか看護士さんとか、

         夜勤の仕事のあるお母さんたちが結構入っているんですけど、

         そこしかないんですよ、本当に。

         そこに通っているっていう領収書を添付して、

         毎月、区の窓口に提出するんです。

         そうしないと、認可に入るための順位が上がらない。

         それが当時の保育園の争奪システムですよ。

         保育課には毎月行っていましたね。

         

— 窓口に行かないとダメなんですね。

池照:そう。「毎月10万円払いました」って。

         「それでも、わたしは仕事を続けていますよ」

         ということを訴える場なんです。

         周囲のママ友のアドバイスもいただき、

         その認証保育に入れていた1年間の間に、

         品川区に嘆願書も書きました。

         「わたしを入れてくれ」っていうことではなく、

         そもそもこういう仕組みでやるのは無理があるし、

         実際、仕事に就いている人たちに対して

         「この仕組み、もっと改善できませんか?」

         という疑問を呈した感じですよね。

         

— 実体験をしながら、制度作りをしていたんですね。

池照:はい。

         でも、契約社員ということで周りには

         「なんで契約なのにそんな仕事しているの」っていう人はいました。

         それまでずっと正社員で人事という立場で働いていましたから、

         自分が契約社員という立場になって、

         雇用形態と役割についても

         考えさせられる機会をいただいた訳です。

         

         私自身はあまり気にしないようにしていまたが、

         何より有り難かったのは、当時の上司です。

         私が契約だろうが何だろうが

         「できる仕事を」といって、役割を与えてくれて

         他の正社員と同じように扱ってくださいました。

         ダイバーシティなどの担当の後、

         グローバルの報酬プロジェクトや

         評価制度の改定プロジェクトなどを担当して、

         本当に、雇用形態は関係なく仕事をすることが出来ました。

         それが、すごくよくて。

         まあ、5時に帰っても、持ち帰って仕事はやっていましたけど。

         自分の裁量のなかで仕事を続けることは出来ましたね。

         

         

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4.育児支援制度があっても働き続けられない現実

4.育児支援制度があっても働き続けられない現実

— アディダスですか? その前に、ちょっといいですか?結婚は、どのタイミングでされていたんですか?

池照:マスターフーズ入って1年目ですね。

         

— 早かったんですね。結婚を機に退職とかは考えず、という感じですよね。

池照:あんまりそういうのは、考えなかったですね。 

         

— 結婚したら寿退社が当たり前な雰囲気が、まだ残っていませんでしたか?「就職したらお寿司」と同じ感じで?

池照:結婚したからといって辞める意識はなかったですね。 

         主人も私も若くて、お金もなかったですし。

         会社もそんなプレッシャーもない。

         共働きの家庭で育っていることもあり、

         働き続けるのは当たり前の姿だった気がします。

         

— その辺って、今、この歳になると忘れちゃうんですけど。当時はすごく周りを気にするというか、「みんなと同じに」っていう意識が働く年代だと思うんですよね。

池照:確かに忘れてる。そうかもしれないですね。 

         でも、マスターフーズっていう会社は、結婚したという理由で

         辞めるひとはいなかったし、周りからも言われないですよね。

         外国人の方も多くいらしたので、それは個人の選択というか。

         そういう感じだったのかもしれないですね。

         

— 仕事と家庭を両立してキャリアを積んで、次に行ったのがアディダス。その頃30代に入っていましたか?

池照:ちょうどそんな頃ですね。 

         

— これまで2社経験して、自分でも自信が付いてきた頃ですね?

池照:自信ね…。 

         アディダスは、日本法人を立ち上げて2年目だったんですよ。

         まだ、若い会社で。

         「これから制度も整備していきます」

         みたいな感じです。

         

— 自動車産業からアパレルって全然違いますよね?

池照:全然、違いましたよ。 

         おもしろい、おもしろい。

         特に当時のアディダスは2002年のW杯に向けて、

         採用を増やし、会社もスピードアップして。

         大きくしていこうという時でしたので。

         

— すごい違う世界に行きましたね。

池照:でも、もうアディダスに行くころには、

         それまである程度「しくみ」がすでにある企業で

         企業の成長状態に合わせて、

         どう「しくみ」を変化させていくべきかって

         勉強をさせていただいた気がしていました。

         

         でも、企業の成長状態に合わせてアディダスでは、

         これから日本法人を確立させていくという。

         ほぼゼロから1を、1から2とか5とかにしていく感じが

         ワクワクしました。

         敢えて違う業種ということもあり、

         挑戦の気持ちは確かにありました。

         

 

— で、アディダスは入ってみてどうでしたか?

池照:実は、アディダスは、わたし1年しかいなかったんですよ。

         入ってすぐに、ちょっとしてから、子供こどもに恵まれたので。

         

 

— えっ、そうだったんですか?

池照:はい、そこで最初の仕事が、人事制度を整えていくということ。

         将来に向けて育児支援制度を、整備するってことだったんです。

         育児休暇なんかも含めて、骨格が見えてきたという所で

         役員に説明に行って。

         その2日後くらいに、自分の妊娠が解ったんです。

         

 

— すごいタイミングですね。

池照:実はそれまでフォード時代から、

         ずーっと不妊治療に通っていたんですよ。

         フォードの時は、上司を含めて男性ばっかりだったので、

         周りには言わなかったんですけど。

         子どもに恵まれたら、

         「いったん仕事から離れて子供と向き合いたい」

         とも思っていましたが、なかなか恵まれず。

         もう無理かなと思った矢先で、びっくりしました。

         で、「仕事はやめよう」って同時に思いました。

         

— それは何か思うところがあっての決断ですか?

池照:その当時って、今に比べると、

         育児支援制度がきちんとある会社はまだそんなに多く無くて、

         時短制度もない状態でした。

         その中でわたしは、こどもが出来たら一旦自分の時間は

         全部こどもに注ぎたいっていう思いがずっとあったんです。

         だから、全然躊躇はなかったですね。

         

         「あっ、辞めよう」って。

         

         すぐに会社に「わたし子宝に恵まれたので会社を辞めます」って。

         上司は「なんで?なんで?」って。

         

— まぁ、ビックリしますよね。

池照:「えっ〜、制度作ったじゃん」みたいな。

         「昨日、プレゼンしたじゃん」みたいな。

         そんな辞めないでよって感じですよね。

         社長は当時、フランス人の方で、彼に言いに行ったら

         「Why?」ですよね。

         「フランスじゃ、2人産んでも3人産んでも続けてるよ〜、Why?」

         「君、制度も作ったじゃないか?」って。

         押し問答して、一週間後に「やっぱり辞めます」って決めて。

         そこから臨月になるまで働いたので、

         今でも、アディダスでお世話になった方にお会いしたりすると、

         「ああ、あのお腹の大きかった人ね」と、いつも言われます(笑)。

         

— 結構、大きな決断ですよね。

池照:はい。でも、わたし個人としては、間違っていないんです。

         ただ、わたしはその時に、

         人事課長としてはものすごい失態をしているんです。

         

— 制度を立ち上げて利用してもらうひとを増やしていく立場だったという意味で?

池照:そう。

         わたし自身もそう思っていた訳ですけど、

         周りの同僚に妊娠を告げると、

         「まぁ、普通辞めるよね、この忙しい環境じゃ」って。

         風土が作れていないんですよ。

         だって、「がんばんなよ」って言うことが気の毒になるくらい

         皆さん働いている訳だし、忙しいんです。

         「そうだよな、お母さんとして家に入った方がいいよな」って。

         

— ビジネスからみて、その制度を作っている立場のひとという位置付けからすると、「池照さん、辞めちゃうの?」って感じがあったかもしれないですね。

池照:まぁ、思いますよね。

         

— 知り過ぎていたから、両立無理って思ったんですね。でも、「頑張ればやれちゃう」っていうイメージもあるんですけど。

池照:どうなんだろう。

         ただ、まだその頃、外資系の小さなところ、

         例えば、フォード自動車も日本の中ではまだ人数が少ないですよね。

         周りにいる女性は、「独身でバリバリと働いて実績を出している」

         っていうのがマジョリティなんですよね。

         アディダスも、わたしがシニアになるくらいですから。

         子育て中の方がいたとしても派遣の方で。

         いわゆる総合職で、周りにサンプルがいなかったですね。

         だから、はっきり言うと、

         「子育てしながら、会社の中で、ずっと働き続けられる」

         っていうイメージが全然なかったです。

         小さな外資系はみんなそうかも知れませんね。

         サンプルがないのと、働き方がとにかく忙しいっていうので。

         

         

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池照佳代さん プロフィール

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3.27万人のための人事制度

3.27万人のための人事制度

— 会社を移ろうと思った、きっかけは何ですか?

池照:マスターフーズって、良くも悪くも

         プライベート・カンパニーなんですね。

         オーナーが中心にいて、

         大胆な決断をスピード感もって実行する。

         それが全世界レベルで。

         だからこそ、色々挑戦させてもらえる会社でもあった。

         

         それが、6年くらい経って

         「他の会社ってどうやって人事やっているんだろう」って、

         純粋に思い始めた時にお話をいただいたのが、

         フォード自動車でした。

         

         その当時で、全世界で27万人の従業員がいて、

         まだ「ビック3」って言われてた時代です。

         お話を聞きにいったのが、直属の上司となる方で、

         その後、フォードの日本法人の社長になった方だったんです。

         

         27万人の従業員を、

         ビジネスファンクション(機能)中心にマネジメントしていますが、

         その一方で人事等は、「横串を刺すような考え方」

         でコンセプト中心のマネージメントもしているという

         話をうかがい、とても興味をもちました。

         また、人事に関しては、担当するファンクションを見ると同時に、

         人事の専門テーマを、必ずどれか一つはテーマをもち、

         本社の関係者と議論をする機会がある、

         と言われたことにも興味がわいて。

         本当に純粋な興味から、

         「ぜひ、勉強したいな」って思ったんです。

         

— 「他社が気になってきた」のがきっかけだったんですね。

池照:そうですね。

         マスターフーズは比較的人材の(健康的な意味での)

         離職率もある会社で、

         上司や先輩達も自ら卒業して次のステップに進むような環境でした。

         私自身も、ある程度、「やりきったかな」って

         いうのがあったかもしれないですけど。

         

— 世界のフォードに行く決断。全く違う業界ですよね。

池照:巨大企業ですよね。

         けっこう色々なことが違って面白かったですよ。

         やっぱりあれだけの規模なので、アメリカ本社の人事っていうと、

         博士号持ったようなひとがたくさんいる訳ですよ。

         「大学で教鞭をとっています」みたいな方が、

         フォードの本社には山ほどいらっる。

         そういう方々が、

         27万人に行き渡らせるような仕組みを考えながら、

         人事をやっているんですよね。

         

— 仕事自体はどうだったんですか?やり方とか、採用も含めて。

池照:フォードに行って、一番びっくりしたのが、

         評価用のシートが枠しかないの。

         

— 枠ですか?

池照:本当に枠で、内容については

         現場の上司と部下で話合いの上、埋めていく形です。

         もちろん等級やバンドは管理されているんですけど、

         現場の上司と部下で話合いの上、埋めていくんです。

         「こんな緩やかでいいの」と感じたくらい違ってました。

         でも、27万人の、

         世界中に散らばっている多様な仕事をする人々をマネージするには、

         余り細かく区分けすること自体がナンセンスなんですよ。

         目標を決めて上司と話し合って、自分評価して

         上司と部門とで査定するって、枠だけがが置いてあって。

         

— やり方も自分たちで?

池照:ただ、コンセプトとガイドラインはあります。

         様々なケースに対応するために、

         人事ではできる限り現場の仕事を理解し、

         シミュレーションを尽くしますし。

         実際の運用は、現場に任されているという感じですね。

         

         最初は、そこに憤ったりして

         何度も上司や本社の人事のメンバーとぶつかったり

         質問を繰り返したりしました。

         相当生意気だったとは思いますが、

         周囲の方は話合いをつくし、逃げずに対応する。

         本当にプロフェッショナルな、

         素晴らしい方々に恵まれていたと思います。

         

— ここでの経験で大きかったものは、巨大組織の中でローカルの人事制度を組み立てる部分ですか?運用も含めて。

池照:そうですね。

         あと、自分の担当組織の人事全般を担当しながら、

         入社の時に約束のあった、人事の専門分野をもつ機会ですね。

         そのテーマが、わたしの場合は

         Compensation & Benefit (報酬企画)

         を担当させてもらいました。

         

— それは自分で選んだんですか?

池照:それは、日本にとって必要だったので。

         あと、プロジェクトとして報酬レベルの見直しを図る

         必要のあった会社からの打診ですね。

         そのプロジェクトでは、アジア全体の報酬を担当されている

         「Compensation & Benefitの先生」

         のような方もいらっしゃいました。

         その方が日本に来てフォード全体の人事と報酬の考え方等について

         レクチャーして下さったり、

         私が、オーストラリアや他国に行って同じような立場の仲間と

         それぞれの国の運用や課題を話あったりする機会を

         いただいていました。

         

— そういう師のようなひとに働きながら巡り会えるって、すごいことですよね。

池照:そうですよね。

         大企業ならではかもしれませんが、

         社内に各分野の研究者のような方がいらっしゃり、

         臆せず質問すれば、みな真摯に応えてくださる。

         まだ、自動車業界がとても元気だったこともあってか、

         今思えば報酬に限らず、その後に浸透する

         MBO(Management by Objective)やコンピテンシー等、

         評価や他様々なしくみやシステムに幅広く触れることができました。

         ダイバーシティとかも、その頃初めて知った言葉でした。

         

— ここ数年ですよね。一般的になってきたのは。

池照:そうですね。

         その頃の日本人にとっては、

         「ダイバーシティ」って言葉がメール配信されて来た時に

         「なんじゃそれ?」だったんですよ。

         ダイバーシティについては、世界にまたがる企業だからこそ、

         人材の幅広さ、また、自動車会社という職務の幅広さから

         繰り出される視点が本当に新鮮でした。

         

— フォードは何年くらいいたんですか?

池照:2年です。

         ちょうど担当していた金融部門がマツダと統合して、

         勤務地が大阪に移ることになってしまいました。

         新幹線通勤でという話もあったのですが、

         家族もいましたし「ちょっと、それはないな」と。

         それで、そのタイミングでお話をいただいていた

         アディダスジャパンに行くことにしました。

         

         

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2.「売上げ倍で人数そのまま」、それでも仕事を回す秘訣は?!

2.売上げ倍で人数そのまま、それでも仕事を回す秘訣は?!

— 実際スタートして、人事の仕事はどうでしたか?

池照:最初は、採用の仕事からスタートしました。

         しかも最初のチャレンジは、外国人対象の新卒採用でした。

         会社としても初めての試みで、何もかもが初めて。

         ゼロからのスタートを担当させてもらうことができて、

         学ぶことばかりで非常に楽しかったですね。

         

         採用というよりも、イベントを仕掛けて集客して、

         マスターフーズの良さを知ってもらって、

         一緒にはたらく仲間を見つけるという、

         マーケティングが強い会社の特性が出ているような

         ところもありましたし。

         

— 新卒の外国人採用っていうと、日本に留学で来ている方が対象ですか?

池照:そうです。そこがターゲットですね。

         もしくは、優秀な留学生が在籍する大学に直接アプローチを

         してだから、あまりルートもない。

         エージェントさんやジャパンタイムズなどのメディア媒体とかに、

         こちら側から仕掛けていく。

         「こういう外資系企業で外国人の採用したい」

         と直接アポととってお願いしたり。

         

         割と若いうちから、

         筆記試験や面接などのコンテンツを企画し、

         実際に採用活動で実践する経験も積みました。

         小論文の応募書類も、部門全員で徹夜で全部読んだりして。

         すごくいろんなことをやらせてもらったかな。

         

— それが20代ですね?

池照:20代の前半の頃ですね。

         そこからどんどん仕事が増えていきました。

         給与企画や社会保険、そして人事の基礎的な部分などです。

         外部の社会保険労務士の先生と協働して

         社会保険とか入退社の手続きとか、

         入社のオリエンテーションやコーディネーション、

         外国人社員のビザ関係や

         出入国の手続き等もやっていました。

         

— 人事の仕事が向いているかどうか考える間も無く、目の前にやることが沢山あってという感じですかね?

池照:そうですね。

         とにかくやることは、もう沢山ありました。

         その後、教育や日本人の新卒採用、

         そして中途採用も責任範囲に入りました。

  

         

— ちょうど、会社も大きくなる時期だったんですか?

池照:はい、そうなんです。

         売り上げを倍にし、社員数はそのままっていう時代でした。

         とにかく忙しかったです。

         でも、すごく勉強になったのは、

         人は増やせない中で外部のアウトソースを活用しながら

         生産性を上げていく経験です。

         外部リソースをどうやって取り込めば

         自分たちの仕事が簡素化できるか、常に考えていました。

         わたしが鍛えられたのは、自分でDecision-Makingする役割を

         いただけたことです。

         エラー&トライをさせてもらい続けたということでしょう。

  

         

— 実際に経験もしたし、やり取りの中で学ぶことができたということですね。

池照:そうですね。

         あと、わたしが非常に恵まれていたのと、

         じぶんが「そこは長けていたな」と思うのは、

         「外部のエキスパートの意見を必ず聞く」ということです。

         例えば、求人広告を出すのは、

         ここのエージェントの営業の方が相談先になるとか、

         社会保険のことだったら社労士の先生に相談するとか。

         教育だったら、教育会社の人たちと。

         それで、仲良くなっちゃうんです。

         

         社内の課題を相談できる信頼関係を作ることに重点を置くと、

         必要な時には、「しょうがないな〜、池照さんは」みたいな形で、

         助けていただいてました。

         意見やアドバイスをくださる方が、

         仕事をするなかで多くいらっしゃっいました。

         「社内外問わず」です。

         

— マスターフーズに出会って経験したことが大きいですよね。

池照:わたしにとっては大きいです。

         人事の仕事の基礎的なところと、

         ビジネスの全体感をつかむ経験をさせてもらったと思っています。

         

         

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池照佳代さんプロフィール

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1.人事への第一歩は「はたらく女性のアイコン」との出会いでした。

1.人事への第一歩は、「はたらく女性のアイコン」との出会いでした。

— 就職を意識したタイミングは、いつ頃でしたか?

池照:わたしは、アメリカで学校を終えて、帰国したのが7月。

         時はバブル後期だったので、周りの友達は女子大とかを卒業して、

         お寿司を食べに連れて行ってもらって、大手町のOLになっている

         ような時代、それを見て、わたしは帰国しているんですよ。

         だから、絶対、自分も日本に帰ってきたらお寿司を食べに

         連れて行ってもらい、ディズニーランドのチケットをもらって

         大手町のOLになるんだって思ってたんです。

        

— そんな人たち、いました?

池照:わたしの世代は、いたんですよ。

         まだ短大卒の方が就職率が高いと言われていた時代ですから。

         ただ、やりたいなと思っていたことは、

         ビジネスの世界には入りたいなと思っていました。

        

— ビジネスの世界ですか?

池照:要は、会社に勤めてみたいと。

          わたしは、両親ともに会社勤めをしていない環境で

          ビジネスの世界に憧れがあったんですね。

          それで、日本に帰ってきて就職活動しようと思ったんですが、

          就職活動ってやり方が分からない。

          仕方がないので、ジャパンタイムズの求人欄を見て

          片っ端から履歴書送ったんです。

          20社に送って、一次面接に呼んでくださったのが3社、

          2次面接までいったのがゼロでした。だから全滅なんですよ。

        

— それは新卒を採らないということで?

池照:そもそも、ジャパンタイムズに出している企業は、

         ほとんどが中途で即戦力になる人を探している訳ですよね。

         でも、仕組みが分からず、とりあえず履歴書出していったんですけど

         まあ、全滅なんですよ。 

         「あぁ、就職ってできないものなんだな」

         っていうのをすごく感じました。

        

         アメリカで勉強してきたのが、

         ”Teaching English as a second language(第二外国語教授法)”

         という資格を取ってきていたので、

         英会話学校は採用の可能性があるかと思っていました。

         そこで、英会話学校で就業経験してからビジネスの世界に入ろうと

         考えました。英会話学校をいくつか受けて、

         入れて頂いたのがECCだったんです。

        

— キャリアのスタートは英会話学校だったんですね。

池照:当時、ECCでは、自分の就業時間以外の時間には、

         ECCにある希望するコースを社員が半額で受けられるしくみが

         あったんです。「あっ、これはいいな」と思って。

         入社して1年の間に、秘書検定とかワープロ検定とか、

         要は日本でOLになるためのスキルに関係する資格のコースを

         受けまくりました。

        

— 1年って決めていたんですね。

池照:はい、きっかり1年と決めていました。

       そして、1年後に転職活動を始めて、マスターフーズに入社すること

       ができました。

       いくつかの企業からいただいたオファーは秘書業務だったのですが、

       マスターフーズだけが、人事部のアシスタントでした。

       当時は、「人事部ってなんだろう」って、全くわかりませんでした。

       でも、面接にいってみたら、自分の上司になる方が

      とても素敵な女性の方で

      「この方と一緒に仕事ができるなんて、なんて素敵なことだろう」

      と思い、何やるか分からないけど入っちゃいました。

      それがマスターフーズですね。

        

— その女性と仕事をすることになって、いかがでしたか?

池照:本当に素晴らしい方でした。

      実際にわたしの上司だった期間は1年くらいだったんですが、

      会社員としての基礎の部分を教えていただきました。

      その後、彼女、違う部署に移動したんですけど、

      ずっとお付き合いは続いていて、

      今でも、お会いしてお話させていただく機会があるんです。

        

— もう、すでにそこで憧れの存在に巡り合っているんですね。

池照:そうですね。

      「こんな風に働き続けて、こんな女性になりたいな」

      っていう理想像は、そこで出来たと思います。

      ちょうど、彼女がわたしより20歳上なんですよ。

      わたしにとっては「はたらく女性のアイコン」みたいな方です。

 

— 若い時期に、そういう方に逢うか逢わないかって大きいですね。

池照:今考えたら、そうですね。わたしは非常にラッキーだったと思います。

 

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7.スペシャリストでゼネラリスト

7.スペシャリストでゼネラリスト

— マスコミ志望の学生って多いと思うんですけど、学生時代にやっておくといいなって思うことありますか?

山本:そうですね、とりあえず関心と経験、知識を幅広くというのはありますかね。

あっ、そうだ!

  

— 何か思い出しましたか?

山本:昔のマスメディアでは、
「幅広く、専門性などない方がいい」
「とにかく夜中まで働ける奴がいい」といった傾向がありました。 

それが今の時代は、そうでもなくなってきているのではないか、と。

文章を書いて発信することが、メディアのプロでなくても可能になって、注目を集めるひとも出てきていますよね。

  

— ブログとかSNSですよね。

山本:そうです。

その中で「どこにプロの意義があるのか」と考えると、記者の専門性が重要になると思うんです。

例えば専門外の人が気づかない切り口で、解説記事が書けるか、問われてくるのではないでしょうか。

わたしがよく使う言葉として

「スペシャリストでゼネラリスト」というのがあります。

スペシャリストとしての強さを持ちながら、ゼネラリストとしての視点も持っている人が重要だと思うのです。
 
昔は企業の中では、文系のひとがゼネラリストで、コミュニケーション力を発揮して、経営を担う。

理系のひとはスペシャリストで、研究開発に専念していればよく、コミュニケーション力は問わない、といった具合だった。

今は違います。両方持っているひとが求められている。

そのことは学生にも、若手の社会人にも意識してほしいですね。

  

— お話全体の印象として、チャレンジはする気質は持っているし、実際に挑戦しているけれど、ベースのところは慎重に、それがあるから今があるような気がしました。

山本:そうですね。

自分の弱みを、体力がないことを含めてよく自覚しているからだでしょう。

強いひとだとガンガンやって大きく転けても、すぐ立ち直れる。一方で、弱いひとは弱い人なりにやらなきゃいけないということで、慎重な部分を持っているんだと思います。

でも弱いひとは「もうだめ」といいながら長生きする、みたいなしぶとさも持ちうるんじゃないかな。

  

— 若いうちから自覚を持っていた感じなんですね。

山本:東京工業大学の大学院に入って、男子学生は徹夜で実験するけれど、自分には無理だと思った、っていうのはありますね。

  

— 男性ばかりの環境にいると溶け込まなきゃ、同じように馴染まなきゃって行動に出てしまいがちな気もしますが。

  
山本:たしかに「多数派である男性の仲間に入れてもらわなくちゃ」っていう意識は、大学院進学やメディア就職のときにはありました。

でも、私は性格的にもさほど強くないし、同じにはできない、とわりと早く悟りました。

「馴染まなきゃ」って意識は、自信がないからでしょう。若い頃は仕様がないかもしれない。

年齢が上がってキャリアを積んでいくと、
「別に一緒でなくていいんじゃない」という余裕がでてくる。

キャリアを積んで自信を付けてからの方が、育休や時短勤務をしやすいのも、同じことかと。

あと、学部がお茶の水女子大で、女子大だったのも大きいと思うんですよ。

  

— 共学化が進む傾向の時代になぜ、女子大なんですか。

山本:高校は共学でしたが、理系で男性が多勢という環境でした。

クラスで何かをするといったら、男子がリードするのが当たり前。何も変に思いませんでした。

ちょっと関心ある事柄に対しても、男子の動き見てから参加を決める、という具合で。

伝統的な社会ではそういう女性は少なくないはず。

でも女子大だと、気にする相手となる男子がいない。「じゃあ、私が委員長やろうかな」って、躊躇なく手を挙げられる。

レポートで困っていたら助けてくれるとか、
実験の重いボンベを運んでくれるとか、そういう男性がいない。

全部、女性がする。

教授クラスも今は、男女半々だそうです。

性別を考えないですむ環境だからこそ、自分らしさを自然に発揮できるようになるんだと思います。

  

— 学生でも若手社員でも、女性の方が男性より元気があって優秀だ、ってよくいわれますけれど。

山本:複数の層があるんでしょう。

一つは、男性との競争に何ら問題のないアグレッシブな女性のグループ。

昔から大学、官僚、メディア、国際機関などに、ごく少数だけどいました。

でも自信家が多い男性と比べ、女性は心配性で
「私なんてだめだ」って思いがちだといわれます。

私自身もそうです。

「大丈夫、大丈夫。これまでのいくつもの壁を乗り越えてきたのだから。自信を持って」って、いつも自分に言い聞かせているんですから。

ほおっておいてもやっていける層以外の女性は、女性だけの環境に置かれることで、

「私にだって、できる」
「周囲の意見は参考にはするけれど、自分で決めるんだ」

という主体性が育まれるんじゃないかな。

女性の活躍推進は、トップ層を厚くすることと、
すでに厚みがあるだけに大いに成長してほしいこの層と、両方なのです。

  

— 「みんなと一緒でなくては」って焦って縛られている意識を

「自分の個性は何なのか、強みは何か」という方向に向けることが大事なんですね。

山本:それがわかれば、自分に価値があると気づけば、自信を持ってほかとは違う形での仕事ができる。
 
それは生来の能力だけによらなくて、作っていけるものなんですよね。

キャリアを積むというのは、今の力を掘り下げたり、新たな挑戦をしたりして、自らの社会に対する価値を高めていくことなんでしょう。

  

— なにか最後に言葉、メッセージいただけますか?

山本:さっきのあれがいいですね。

「スペシャリストでゼネラリスト」。

これ、わたしは入社した時の、新入社員紹介の冊子で口にしているんですよ。

研究職は自分にはできない、という学生の時のショックから、そう考えたんでしょうね。

大学院時代の同級生はほとんど皆、研究職でスペシャリストになった。
一方で新聞社はゼネラリスト志向。
だから、その両方を、と。

一昔前はどちら一方が強ければよかったけど、今は多くのひとでこの2つが必要とされている。

両方の視点を持つ人こそが、社会をより豊かにしていけるのではないかと思っています。

  

— 新入社員の時に、その意識があって言葉にしていたんですね。今日は、いろいろお話を伺えて楽しかったです。ありがとうございました。

   

   

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6.慎重、かつ大胆に

6.慎重、かつ大胆に

— 小説は断念とのことですが、その後に本を2冊出版されていますよね。

山本:最初はまったくダメだったんですよ。

博士号取得の後に、研究テーマとした
「産学官連携のコミュニケーション」で本を、と狙っていたのですが。
博士研究の一方で、出版社の編集者の知り合いを増やし、期待していたのですけれど。
 
近年は、出版業界もビジネスが厳しくなる一方で。
相談のメールを1本、出しただけで即、不可の返事が来るありさまでした。

社内の出版局にも「このテーマでは売れない」って断られました。

  

— 本を出したい人は多いと思うのですが、出版社に受けてもらうのは簡単でないんですね。

山本:「私の企画が悪いというより、出版不況のためだ。仕方がない」と開き直って、しばらく放っておきました。

その後、うちの新聞の読書欄で新刊書の著者インタビュー記事を書いたことをきっかけに、先の編集者の一人が声をかけてきまました。

「この本は私が担当したのですよ。お礼方々、情報交換しませんか」と。

  

— 敗者復活、ですね。

山本:会ってアイデアを出し合ううちに、本の内容を
「科学技術全般のコミュニケーションに広げれば、いけそうだ」となって。

前回は、各出版社や編集者のタイミングがよくなかった、とか、そういうこともあるんだろうと思い直しました。

こうして「研究費が増やせるメディア活用術」という初著書を、丸善出版から出すことができました。

2冊目は「理系のための就活ガイド」。

どちらも技術を核にもつ理系人の活動を、後押しするためのノウハウ本です。大学の非常勤講師でもこの内容を、若い人に伝授しています。

  

— 新聞記者が書く書籍って、どんな感じなんですか?

山本:朝日新聞や読売新聞など、一般紙の科学技術記者の場合、
「科学ジャーナリズムとは」といったものを好むようです。

高尚で、少し学術的で、読む人が限られているテーマです。

私が意識したのは、
「科学でなく技術」
「高尚なものでなくて、使えるノウハウ」。

理系の専門家に対して、
「こうやったらあなたの研究の、あなた自身の、よさを一般に広く伝えられますよ」っていう内容です。

前に「OJTじゃなくてマニュアル化すればいいのに」
っていいましたが、ノウハウとかマニュアルとかは、
どんどんそろえて大勢が活用すればいい。

基本的なやり方がわからないために、損をしていちゃもったいないから。そのうえで、その人独自の創造的なことに取り組む。

その方が社会にとって、よりよいものが生み出せると思うんです。

  

— 何れの活動も、最初からダメってしないで、とりあえずはチャレンジしてみる姿勢は貫いていますよね。

山本:実はどの挑戦も、背水の陣とはしていないんですよ。

今の仕事をキープしながら、トライしているんです。試した方がとてもいいとわかればキャリアチェンジをしてもいい。

元の仕事や生活を続けるにしても、一段上の質をつくりだせてるようになる、と考えていました。
 
「慎重かつ大胆に」って姿勢が重要だと思うんですよ。

慎重なだけじゃ、いつまでも変われない。大胆なだけでは、時に大失敗をしてしまうから。

  

— 女性って結構、過去をスパッと切って「新しい世界へ」っていう傾向がある、といわれますけど。

山本:確かにそうですね。

悩みを周囲に話すことなく、いきなり退職しちゃうとか。思い切りよく、ぱっと留学しちゃうとか。
 
そういえば過去の恋愛の扱い方でも、男女の違いがあるっていいますね。

パソコンのファイル保存になぞらえて、
男性は「名付けて保存」で、過去の思い出を大切にとっておく。
でも女性は「上書き保存」で昔の相手は忘れてしまう、って。

それから、いざという時、
女性は仕事を捨てて家庭に逃げ込むことができる、
という考えもあるでしょう。

心身に不調をきたすほど苦しい時には、確かに「別の選択肢がある」というのは救いになる。

でも、もう少しがんばるべきところで、逃げてしまうという危険性を持ち合わせてもいる。

  

— そちらに行かなかったのは何か理由があるんですか?

山本:どうでしょうね。
仕事を辞めるということは考えませんでしたが…。
育った家庭は会社員の父と、専業主婦の母という形でしたから、
「時代」なんでしょうかね。

均等法の直後に社会へ出て、
「女性もこれから、生き生きと働けるようになる」
と思える社会環境ではありました。

だから「仕事は、自分をつくっていくものだ」という考えは強く持っていた。

でも一番は、
新聞記者がおもしろい、
自分に合っていると思ったから、
手放す気にならなかったということかな。

もし社会に出たての時の仕事が辛かったら、どうなっていたかわからない。

  

— キャリア初期の経験って大切ですね。仕事が楽しいものだと知る意味でも。

山本:年長女性でよい仕事をしている人は皆、
「紆余曲折を経て、途中の大変さもすべて自分の糧にできた人」
だと感じます。

仕事への意識が、男性のように単純ではない。
だからこそ深く考えて、自分に合った形を築くことができるんじゃないかな。

仕事だけでなく、プライベートでもそうで、
辛いことを乗り越えて来たことが、今の自信につながっている。

キャリアってそうやって構築していくものだと思います。

  

— こういった視点が、今のポジションやキャリアを作っているベースにあるんですね。

山本:わたしのポジションは管理職ではないんですよ。

論説委員というのは、記者職の中の上級職ではあるのですが。独立してビジネスをしている人や、芸術家と似ている面があるかもしれません。

一般に企業における成功って、
大勢の部下を持ち、
予算や決定権があり、
給与が高いということをイメージするでしょう。

その意味で成功しているかどうか、にこだわる必要は、ないと思うんです。

「これは社会にとって絶対に重要だ」
ということを仕事で採り上げられるかどうか。

その意味で、重要な仕事をしているという誇りは強く持っています。

   

   

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5.キャリアの危機を振り返ってみると

5.キャリアの危機を振り返ってみると。。。。

— 順調に記者としての経験を積まれてきた印象を受けるのですが、実は、そうではない、見えていない部分で苦労されたことってありますか?

山本:大きな流れとしては悪くないですが、実はけっこう不安定ですよ。

「このところ仕事が思うように進まない」とか、「こんなのはやりたくない」とか、「職場の誰それと何度もぶつかる」とか、しょっちゅうです。

でもこういうストレスは、どんな仕事でもあるものでしょう。なんとか共存していくしかない。

   

— キャリアの危機って考えると何かありますか?

山本:「キャリアの危機」って表現、面白いですね。なんでしょう。「悔いが残るようなキャリアの転機」ってことかな。
 
私の場合は32ー33歳の頃ですね。公私ともに悩みが押し寄せてきた。

仕事の悩みなら、社内外のメンター、つまりメディアや科学技術の分野の親しい年長者からのアドバイスが有効で、たいていはそれで乗り越えてきました。プライベートの問題も、身内や友人と話す中で模索していける。

でも両方が重なったので苦しかった。

   

— 仕事とプライベート、両方ですか?

 

山本:そうです。

企業担当になってまもなく、上司が厳格な人に変わりました。ミスや文章の仕上がりなど毎日、怒られっぱなし。

「おかげでだいぶ鍛えられた」と今ならいえますけどね。企業担当のため他メディアとの競争も激しかった。

胃がひどく痛み、薬も効かなくて参りました。

   

— ストレスが大きい時期だったんですね。

山本:ちょうどその頃、結婚したので、仕事でもプライベートでも変化の時でした。

ちょっとユニークな組み合わせだったこともあり、早くこどもを持って、憧れのワーキングマザーになりたいと思いました。

ですが、それがかなわなくて。詳しくは省略しますけれど、ひどい心理状態になりました。

   

— それでも仕事は続けていたんですね?

山本:仕事を辞めることは、考えなかったです。

基本的には記者の仕事はおもしろかったし、「体力のない私でも両立できる職場環境を整えられたぞ」と思っていましたから。

とりあえず出産となれば、しばらく職場で休みがとれる。それで公私ともに好転できるのではないか、と思いこんでしまった。

若いときは、「これしかない」って思いがちですから。結果的には、さまざまな見方を受け入れたり視点を変えたり、長期戦になりました。

   

— 長引くのは辛いですよね。

山本:後半、「今回の件はどうやらうまくいかないらしい」と思うようになった。

それで「自分がエネルギーを注ぐ対象としては、やはり仕事しかないのか」と思い直したんです。すると、「こどもがいないなら、別の選択肢も考えられる。

もしかしたら、別の仕事の方が、私には向いているんじゃないか」ってなっちゃいました。

   

— 新聞記者以外にですか?

 

山本:これもまた、憧れみたいなものだったんですけど、「小説を書く」っていうのがありました。

文章はずっと好きでしたし。

それで4年ほど、講座に通って、原稿用紙100枚程度の小説を書いてみたりしました。

   

— 小説家になる講座ですか?

山本:そうです。もしも上手くいったら…と想像しましたが、これもまた、向いていないとわかりました。

小説家は、とてもとんがった感覚が必要で。ちょっと普通ではおつきあいできような面もある。変人です。それでないと、刺激的なものは創造できないんだ、って実感したんです。

   

— なんか分かる感じがしますけど。

山本:私らしさを考えると、それはちょっと違うかな、と。

私は社会的な感覚がそれなりに強いと思う。同じ文章を書く仕事といっても、“科学技術と社会の間を繋ぐ活動”の方が、自分は向いている、って分かりました。

   

— こちらも数年かけての取り組みですね。

 

山本:ある程度の期間、努力してみて、難しいとわかった。

「そうか、神様は私をそっちに導こうとしていないんだな。そっちじゃないんだな」と納得しました。

こどものことも、小説のことも、30代終わりに区切りをつけられました。結果的には前の形に戻っただけだけど、前向きに“卒業”するところまで持っていけた。

「いろいろ考えて取り組んで、納得して、区切りを付ける」という姿勢が身についたんです。これは私の辛かった30代の収穫です。

   

— もし、これらの希望がかなっていたら、どうでしょう。

山本:どちらも憧れが実現して、記者の仕事と両立となったとしたら、私は仕事が“そこそこ”になっていたのではないかと思います。

でも、そうならなかった。その結果として、科学技術と大学の記者として1ランク上の仕事に取り組むことができた。

夢は叶える努力をするものだけど、叶わないこともある。

本当の意味で大人になるに連れて、だれもが実感することですよね。

それに「これが一番、いい」なんて本当のところ、わからない。両方同時にやってみて、選ぶということはできないのだから。

私の場合は、きっとこれでよかったんです。まあ何事も、人生はそう思うしかないですよね。

 

   

   

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池照佳代さんプロフィール

池照さんプロフィール

池照佳代(いけてる かよ)さん

有限会社アイズプラス代表

2006年(有)アイズプラスを設立。代表取締役
㈱gift 取締役(社外)
認定NPO法人キーパーソン21 理事
NPO法人インディペンデント・コントラクター協会 理事

ホームページはこちら
有限会社アイズプラス ホームページ

 

4.産学連携と博士号への挑戦

4.産学連携と博士号への挑戦

— 取材の対象が変わったら、今までと違う視点を持つようになったりしましたか?

山本:もちろん違ってきますが、「視野が広がる」といった方が適切かもしれません。

 今は大学・産学連携と科学技術行政を担当していて、「科学技術がベース」という意味では以前と同じです。ただ研究者の取材よりも、大学は組織としてどう戦略を立てるか、国の政策はどうすべきか、というテーマが中心で。国の予算編成の記事も手がけます。

 もっとも、仕事の基本的なポイントは変わらない。例えば、新しい情報を取ってくるとか、それをどういう風に分かりやすく伝えるかといった点は共通している。それまでのノウハウを活かすことになります。

— 取材対象が変わるというイメージですかね?

山本:そうですね。以前は教授など個々の研究者への取材が中心でしたが、大学の学長や理事、最近は文部科学省などの官僚というケースが増えました。

 官僚の場合も「メディアをどのように活用するか」といった切り口で、私たちと付き合う面を持っているんですよ。企業取材で直面する広告宣伝の意識とは少し違うけれども。

 「自分たちがやりたい」、「日本のためにこれが重要だ」と思うことを、どう社会に理解してもらうか、その伝達手段としてメディアをとらえている。中でも、財務省に理解してもらって予算を獲得するというのが、官僚の重要な仕事なので、その辺を意識した対応になりますよね。

— 社内での担当の変更は、イメージ通りに進んだのですか?

山本:30代後半に「産学連携」「産学官連携」という言葉が出てきて、その担当記者になりました。

 2004年に国立大学が、文部科学省の下部組織ではなく独立した法人に変わる大転換があって。「国立大学は企業と連携して社会に役に立つ技術を発展させ、その対価として特許収入や研究費を得るようになる」「そのため産業界と大学、さらにサポート役の官庁が、刺激し合って新たな価値をつくりだす産学官連携の活動が重要だ」ということで、新たな担当の記者を置くことになったのです。

 科学技術には強いけれど、大学などの教育系は手薄だった新聞において、以前はなかった担当ができた。そこに「はまった」のが、わたしにとっては大きかったですね。大学の役割、つまり研究、教育、産学連携または社会連携という、全体をみることにつながっていったんです。

— 普通はどうなっているんですか。

山下:メディアの記者は一般に、「科学技術担当」と「教育(大学を含む)担当」が別なんですよ。科学部の記者と、社会部の記者とに分かれている。でも私は理系の大学院を出ているし、それまでの担当からして、両方の視点を持つことができる。感覚的にわかることも含めてね。

 例えば文部科学省の産学連携施策に対して、大学の研究者や企業の取材経験やつながりがあるので、「そちらの視点からみてこの施策はどうなのか」と考えられる。これは強みになりました。

— 取材だけではなく、つなぎ役みたいな役割もしたりするんですか?

山本:その役割は大きいと思います。わたしは産学官連携というまさに「異なるセクター・機関の連携による相乗効果」を取材対象としているだけに、実感しました。この3つの中に入って、それぞれに取材をして、話を消化したうえで、社会に発信する。

 「あの幹部がこんなことを言っているのか」、という情報が、文化も価値観も違う産と学と官のコミュニケーションをよりよくしていく。単に右から左へ、情報を流すのとは違うんですよ。新しい仕組み自体を回すことに、メディアが重要な役割を果たしている、という意識かな。

— その後、社会人で記者の仕事をしながら博士過程に進んでいますよね。これが大きい変化になったりしましたか?

山本:そうですね。博士号がなくても、科技と大学の両方の視点は持てたとは思うんです。でも、大学などの研究者養成で必須とされる博士号取得の取り組みを、実際に知ることができたのは大きかった。

 記者は普通、取材によって「これは重要だ」と感じたことを記事にする。だけど、「自分のよく知る問題で、社会にとっても重要だ」ということを記事にする方が、力が入るじゃないですか。

— 社会人大学院に通おうと思った動機って何かあったんですか?

山本:理系出身で、博士号に漠然としたあこがれがあっただけ。だけど産学官連携で担当が長くなって、振り返ると、専門記者になってきた。

 産学官連携は新しい分野だったから、「研究テーマになるかもしれない」「憧れの博士号がとれるかもしれない」って。そんな具合でした。

— 産学官連携を研究テーマにしてみようと思ったんですね。

山本:その時は、研究をしたいというより、「博士号を持つということは、自分のキャリアとして大きいな」って考えて。

 新聞記者って、ジャーナリストなんていってカッコよさそうだけど、実はただの会社員。記事の扱いなど決定権は上司にあるし、転勤や異動も嫌でも従わざるを得ないし。それで、もっと自立したもの、自分の個が持ちたいなという気持ちがあったんです。
 
 「産学官連携の担当という新聞記者は、日本で私しかいない」「私にしか書けない記事を発信している」という意味では自信があった。だけどもうひとつ、博士号を持つということをやってみたい。そうすることが、自分にとってプラスになるだろう、と思ったんです。

— ドクターにチャレンジしたのはいつ頃ですか?

山本:始めたのは40代の初めです。研究職ではない社会人が、博士号を取るというのはものすごく難しいです。

 理工系での研究はもちろんできない。社会科学の経営学や経済学もかなり厳しい。現役学生でも6年間、在学して学位取得断念が珍しくないほど。だからかなり慎重に、大学院と指導教員を選びました。

— 簡単ではないんですね。

山本:仕事と直結したテーマでなければ、博士の学位はとても無理。私もそうでなければ、チャレンジはしていないですね。

 幸い新しい分野だったので、「仕事の取材と、研究の調査を直結させるのであれば、できるかな」と。普段の取材の中で課題や仮説をみつけて、それについての取材がヒアリングの調査になって、得られたものの大半を記事にして。週末に、それらを統計解析するなどして、研究・論文の形にしていくという感じ。3年半で取得にこぎつけました。

— 仕事と研究が繋がっていたんですね。

山本:わたしの場合は、大学院の博士課程の経験が、再び仕事に活かせているんです。「博士教育とは」ということを、自ら経験したので。

— 具体的にはどんな部分が繋がっていますか?

山本:例えば、論文の投稿っていうと、「研究の仕上げとして論文投稿する」ってイメージするでしょう。

 でも、実際はそうではないんです。指導教員に「いいんじゃない」って言ってもらって投稿したのに、査読する先生が「こんなデータでは甘い」、「これはあなたの独りよがりだ」「裏付けがまったく不足」とまぁ、めちゃくちゃに批判が来るんです。それに対してひとつずつ説明して、データが足りないっていわれたら追加で調査して。何回も改訂した原稿をやりとりするんです。

— 厳しい指導を乗り越えないといけないんですね?

山本:論文査読による教育というのが、実はすごく大きい。

 自分の指導教員はOKでも、少し領域が違う研究者にはダメといわれちゃう。他の研究者の意見に耐えられる研究に仕上げる、ブラッシュアップしていく。「そうか、こういう形で教育しているんだ」、「これを乗り越えることが、博士の学生に課せられているんだ」って体験して初めて、知りました。

 博士号審査は一般に、「査読付き論文が3報あること」といった条件があるんですけど、それは「他分野の人も説得できる研究論文を書く能力がある」って意味で必要なんですね。一般に知られていない博士の人材育成を体験できたことは、その後の取材にもすごく役立っていると思います。

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