3. 「夜回り」って何ですか?

3.「夜回り」って何ですか?

— 20代のころに失敗した経験とか、今考えると大変だった事ってありますか?

山本:大変だった経験ですか…。

 駆け出し記者のころは、「こんな記事を書いてはいけない」とか、「こういう表現では取材先からクレームがくる」ということがわかっていない。プラスの事例を日々、吸収することに頭がいっぱいで、マイナスの事例を知らないまま。そのために危ないことがありました。

— 例えばどんなことでしょうか。

山本:ある時、某企業の製品安全性の研究について、学会発表に基づいて取材に行き、素直に執筆しました。したつもり、でした。

 ですが、私の表現では、その社が、安全性に問題のある製品を販売し続けているように見えてしまう、と指摘されました。

 また、記事にするタイミングが遅くなると、取材時とは状況が変わってしまうということも、いわれるまで気づきませんでした。大学や公的研究機関の取材に比べて、企業の取材の時はこのあたりに注意が必要です。

— 大学の取材では感じることがなかったものなんですね。

山本:大学の研究成果の記事は基本、明るい内容でしょう。

 「◯◯を開発しました! 将来、△△が可能になる期待が持てそうです」という具合で。企業間の競争とも離れているし、社会部記者が扱うような関係者が対立する内容もあまりないので、クレームがくるなんて考えたことがなかったんですよ。

 この手の右往左往はみんな一つや二つはあるでしょう。もちろんトラブルばかりでは問題ですが。先輩や上司に相談しながら体験して、OJTで身につけていく。その側面が強い業界ですね。

— 記者のキャリアパスってどんなイメージなんですか?

山本:一般的に記者の担当は3年くらいかな。一般紙だともっと早くて2年とか。半年というケースもある。

 異動まで短いのは、昔ながらのジャーナリスト育成としての考え方によるんですね。広く浅く。その分野でのスペシャリストではなく「ゼネラリスト」を志向するから。

 わたしの場合、入社して6年間は、研究成果の取材で主に大学関係を担当して、会社の担当になったのが20代終わりの方。業界は化学と、食品でした。ビジネスの業界担当は社として重要だったので、希望して移りました。

— 取材の仕方も変わったんですか?

山本:もちろんですよ。大手企業の取材がメインだから、他メディアとの競争も激しくて。

 象徴的なのは「夜回り」でしょう。

 公式の席では聞けないことを夜、社長らの自宅に行って聞く、それを夜回りっていうんですけど。昼間の取材では聞けないけど、周りに関係者がいなければ、「まあ、こういう感じなんだよね」と話してくれることがある。それを期待して行く。

複数の幹部から聞き集めれば、その状況から記事にできるので。

— 「ピンポーン」って自宅に行くんですか?

山本:そう。「社長、ご在宅でしょうか?」って。で、まだ帰ってないって言われたら、しばらく家の前で待ってみる。でも、居留守を使われることもある。

 行って会えないのを「空振り」って言うんですけど、「しょうがない、また明日やってみるか」と思って帰宅。その翌朝、ポストの前で「◯◯新聞に出てる!」と頭に血が上ることもある。

— 本当にあるんですね、そういうのって。

山本:今も、担当記者は大物案件で夜回り、もしくは早朝に自宅へ向かう「朝駆け」をやっていますよ。スクープの快感を想像しながら。

 新聞記者の面白さのうち、もっとも他ではできないことって考えると、これかもしれない。非日常でどきどき、わくわくする。だから、夜回り大好きの記者もいます。

— そういう取材は最初にどうやるんですか? それもOJTですか?

山本:OJTです。先輩にくっついて行って、やり方を見て、自分で考えるようになっていく。

 緊張するし、疲れるし、「やりたくない」っていう気持ちも強い。スクープなんて、できない可能性の方が圧倒的に高いし。

でも若い頃は「大変な仕事はやらない」って選択肢はない。「これはやらなきゃいけないことだ」っていう感じで引き受けるでしょう。新聞記者だからがんばらなくちゃ、と思って、行っていた。

 でも、まあ落ち着かないですよね。人によって向き不向きも強く出るでしょうね。年長になると、そんなパワーもなくなってくるし。

— 誰もが通る道でもあるんですね。

山本:思うんですよ。

「記者のいろはを、もっとマニュアル化すればいいのに」、「専門技術の教科書みたいに、文書で示されていれば助けになるのに」って。

— マニュアルって存在していない業界なんですか?

山本:現場で個々に作成するものはあったとしても、組織的なものは、用語集くらいしかないでしょう。

 そういうことはしない業界ですね。それより「とにかく現場に行って、話を聞いて、とりあえず原稿を出してみろ。その中で学んでいけ」みたいな。身に付けていくノウハウを含め、やり方は各人によってけっこう違う。

 メディアも会社組織だけど、普通の会社に比べて、個々の活動や判断を重視する面が大きいと思います。

— いまITがこれだけ一般的になって、属人的に情報を囲う時代から、共有することに価値を置く時代に変わってきた気がするんですけど。

山本:私もそう思います。

 昔、マスメディアや記者は、社会的な評価がすごく高い特権階級だったんですね。要人に会えて、貴重な情報にアクセスできて、その中から選別して社会に発信できるというのは数少ないメディア人のみ。ウェブがなかった時代、どの家庭も新聞を購読していて、通勤電車で相当数の人が新聞を広げていた。

 逆の立場で言うと、社会にアピールするには、「メディアに採り上げてもらう以外の方法はなかった」状態で。

 記者に希少価値があって、やりがいがあるから、優秀な人材が集まる。中には著名になって、フリーのジャーナリストとして独立する人もいる。そんなことから個人主義も強かったのでしょう。

— ウェブで大きく変わったんですね。

山本:あらゆる業界がウェブが激しく変わって、マスメディアはとくに大変です。新聞を読む習慣が激減しているから。新聞の権威より、電子メディアの口コミ情報の方が頼りにされている面がある。

 ウェブを使って、記者と同様の仕事をする人が格段に増えたわけでしょう。だからOJTでノウハウを囲い込むのでなく、共通化した方がスムーズにいく部分があるんじゃないかな。その中で差別化を図らなくてはいけない、そういう難しい時代になっていると思います。



episode4 公開しました。
つづき

感想を送る

山本佳世子さん 最初のエピソードから読む

このコンテンツの最初にもどる

2. 新聞記者に向いているキャラクターって?

2.新聞記者に向いているキャラクターって?

— 最初から記者になれたんですか?

山本:幸い、なることができました。理系の修士出身で記者になる人は、当時は多くなかったのと、自ら希望を出していたのとが、理由と思います。ストレートに科学技術の記者として、担当部署に配属されました。

 いろんな人に会いに行って、科学技術のユニークな研究の成果を聞けて、関心を持ちましたし、楽しかったですね。

 研究者は論文や学会発表が、研究成果の発信の機会でしょう。でも、わたしが取材をして記事にすることで、もっと多くの人に伝えられる。論文とは違う形で、社会の幅広い分野の人の目に触れるというのは、やりがいがありました。

 しかも、それをとても若いうちに手がけられる。この仕事は本当に素敵だなって思いました。

— 人見知りとか、初対面の人に会って話を聞くことって、抵抗感なかったですか?

 

山本:その点は大丈夫でした。

 それに、研究者に取材といっても初めは、「学生が大学の先生に質問する」ような感じですから。親切にしてもらえますよ。「分からないって言ったら、みっともない」という構えもしないですむ。「教えてもらっちゃった~」みたいなノリだった気がします。

— お話を伺っていると、キャリアの初期は就職活動を含めて、順調なイメージですよね。

 

山本:そうですね。修士で「研究職を辞めよう」と思った時のショックが大きかったけれど、その後はハッピーな方向へ持って行けました。もちろんミスをして怒られることもあったけれど、楽しかった。

 記者として最初の教育を受ける段階で、よい上司についてもらえたのもラッキーでした。若い時に、どういう人にみてもらえるかというのは影響が大きいですよね。

 もちろん、指導者は社内で相応しい人が選ばれているけど、そうはいってもいろいろなタイプがいて。記者の仕事のノウハウは「その人ならではのもの」なんですよ。

 文章の好みも人によって違う。体言止めを入れると「文章に変化があっていい」っていう人もいれば、「現在のことか、過去のことかが曖昧になるから禁止」という人もいて。よくいえば柔軟性がある。ケースバイケース。一概に「これが正しい」とは言えないんです。

— 誰に指導をされるか、その影響が大きいんですね。

 山本:若い時に言われて印象的だったのは「記者は個性で記事を書く」ということ。入社するまでは新聞記者に、典型的なイメージ、「タフで負けず嫌いでずうずうしい」ってイメージを持っていましたが、実はそんな人ばかりではなくって。

 記者の一番の仕事は、新しい動きとしての【ニュース】を取ることと言われます。文章として優れたものを書くことより、「他のメディアで報道されていないネタをつかんでくる」というのが重視されるんです。わかりやすくいえば、スクープ第一主義、ですね。

 ネタを引き出すためなら、相手をおだててその気にさせてもいいし、法に触れない範囲で強気に迫ってもいいし、土下座して頼み込んでもいい。どんな方法でも構わなくて、それは「記者それぞれの個性でやり方を考えるんだ」って言われて。

 「そうなんだぁ、じゃあ私にもできそうだ」って思ったんですね。

 20代、駆け出しの頃は、「記者という仕事は、社会から何を求められ、どう応えていくものか」の基本を学び、少しずつ「自分らしさ」を考えていく段階だったと思います。

— 若い時から裁量があって、任せてもらえる仕事なんですね。その分ミスをすれば、自分に降りかかってくる、責任が重い職種ですよね。

山本:そうですね。通常の企業で言うと営業職に近いかな。体育会系の人もいれば、お客様の気持ちに寄り添うタイプの人もいるでしょう。会社の中の評価より、外のお客様からどれだけ評価をもらえるのかが、大切。それが結果的に、社内評価に跳ね返るという感じかな。

— 記者の中で、女性は多いんですか?

山本:報道の世界は長く、男社会でしたよね。体力も時間も使うから。でも一般紙だと家庭欄とかあって、昔から「少数だけど活躍している女性はいた」という感じでしょう。

— タイプとしては、先ほどから話に出ているようなバリバリ、男勝りに働いているような女性が多いんですか?

山本:昔はそういう人が多かったと思います。パワーがないとやっていけない。でもこれは記者に限らないかも。男女雇用機会均等法から働いていて、社会的な活躍をした女性は、「有能なうえに気が強くて体力もある」という人に限られる気がします。

 そもそも、就職活動の時から激しい差別を受けてますからね。「女子学生の採用枠はなし」とか、「女子は親元からの通勤に限る」とか、信じられないでしょう。そこでめげていたら、就職すらできなかった。

 でも、均等法以降、わたし達以降は、女性もあらゆる企業で増えてきて。記者はコミュニケーションがキーとなるので、女性に向いている面もあって、増えてきたんではないかな。

— それは、徐々に広がり始めたっていう感じなんですか?入社した時点ではどんな感じでしたか?

山本:男性と同じ内容の仕事をする女性の数というのは、均等法世代で、それ以前と比べて格段に増えたでしょう。

 物珍しくて、社内外の注目を集める最初の世代。だけど辞めていく人も多かった。社内の年長男性はどう扱ったらいいか、社会人になりたての女性はどう振る舞えばいいか、互いにわからなかったのだから。

— 新聞メディア全体ではなく、日刊工業新聞の中ではどうですか? 先ほど、理系で修士の記者は珍しかったというお話だったのですが、女性の記者としては。

山本:日刊工業新聞も記者で女性を採用したのは均等法からだったので、先輩女性記者はわたしより前は数人でした。

 さらに文系のジャーナリスト志望の人が多い中で、理系で修士を出て女性っていうのは珍しくて。その点では取材先にも覚えてもらいやすかったんですよ。

— じゃあ、そのポジションを作ったパイオニアだったんですね。

山本:うーん、別にその時点では何もすごいことはしていませんからね。その時代の中で希少価値があった。ラッキーだっただけ。

 理系は学生時代の専門が明確だから、特徴が出しやすい。文系の方は、社会人になってからの個性というか、専門性を構築するのに時間がかかる。

 理系が研究職以外の仕事で活躍する場合、その意味で今も有利な面があると思いますよ。まあ、逆もいえますけどね。記者のコミュニケーションの部分では、文系の方が学生時代から力を磨いてきていますから。


episode3 公開しました。
つづき

感想を送る

山本佳世子さん 最初のエピソードから読む

このコンテンツの最初にもどる

1.典型的な理工系の学生でした

1.典型的な理工系の学生でした

— 就職を考えるようになった時期は、いつ頃ですか?

山本: 就職の思案をしはじめたのは修士1年ですが、その進学を考えたという意味では学部4年の初めです。今と比べると就職活動スケジュールは一般に遅かったのですね。私は、典型的な理工系の女子学生でした。授業にはちゃんと出て、大変だと騒ぎながら実験してレポートを書いていました。

 実験はあまり上手じゃなかったのですが、数式よりは実験の方が「楽しい」って気持ちがあって。学部4年生は有機化学の研究室に入りました。 

 学部卒が88年なのに対して、男女雇用機会均等法の施行が86年でした。だから、社会の動きを敏感に感じ取って、もっとあれこれ考えていてもよかったのに、と今なら思います。でも、その頃はそういうことは頭の中になかったみたいです。

 やっぱり何て言うのかな、学生の時って本当に自分のごく周りのことしか知らない。社会全般の動きなんて、わかっていない状態だなと振り返ります。

— みんなそんな感じですよね。狭い世界、周りの世界の中で考えて動くみたいな。大学としては、進学を選ぶ方が多いのでしょうか?

山本: 「当時の私の所属では」という限定ですが、1/3が進学、2/3が就職というイメージでした。

 その時は、職種として「研究職に就きたい」って思っていたので、「それなら進学した方がいいよ」という周囲の声を受けて、「修士に行こう」と悩まなかった。だから、学部の頃は職業についての意識が頭の中になかったのだと思います。

 4年生でサークル活動も離れて研究室に入ると、世界はそれまで以上に狭くなりました。女子大は、男女の役割を意識せずに活動できるよさはあるけれど、少しのんびりしている印象があって。研究者になるなら、「男性とともにバリバリと頑張る環境で研究していく方がいいかな」って考えて、外の大学に行きました。

— 修士の時に他の大学に進学したんですね。

山本: はい、お茶の水女子大学から、修士は東京工業大学へ進みました。

 それで、修士課程の1年目ですね。そこでもう早速キャリアの転機を経験したんです。

— キャリアの転機ですか?

山本: そうです、大学院にいって「研究職は向いていない」って実感したんです。学部の頃は「実験は下手だけど好き。好きが一番」だと思ってやっていたんです。

 だけど、修士の時の実験は本当に上手くいかないて。1年経ったところで、「めぐり合わせもあるから、研究テーマを変えよう」って、指導教員に言われました。それが、私にはものすごくショックだったんです。

 1年間頑張って、我慢して続けてきたのに、ダメなのか、と。研究職に向いている人は、こういう展開になってもショックを受けない人なのではないか、と思い当たったのです。

— そうですね、1年目から上手くいくテーマに巡り会える可能性も低い世界ですよね。

山本:そうなんですよ。

 1年を無駄にしたといっても、修士の学生であれば「卒業させないよ」ってことにもならない。それほど深刻な状況ではない。「こういうやり方ではうまくいかない」というのも、重要な知であり、それを見つけるということも研究においては意味があること。だから問題は、「本人がそれを辛いと思うかどうか」だけです。

 考えてみれば企業なんて、簡単には進まない研究開発をずっと続けているわけですよね。医薬品はその典型でしょう。それこそ、「自分が関わった案件は、定年まで続けたけれど、商品化につながらなかった」ってこともありえる世界ですよね。研究に取り組む、そのこと自体をおもしろいと思える人が、研究職という職業を全うできるのだと思うんですよ。

— 今だから言えるという話でもありますよね?

山本:そうですね。

 でも、この経験を経て、「好きなだけでなく、向いていることをする」というのが、仕事を考えるうえでの新たな指標になりました。研究職は仕事のスパンが長いのも、「自分には合わないな」と思った理由の一つです。研究職は無理、でも科学技術関係のことはやりたい。短期間で集中してできることはないかなと、別の仕事を考えるようになったんです。

— それは、修士課程1年目の時ですか?

山本:修士1年が終わるころ、就職を考え始める時期でした。困ったなあ、どうしよう、って。

 「どういう仕事があるかな」って考えるにしても、当時は今のようにウエブなどで情報を多く集められる時代ではなかったので悩みました。科学技術の財団とか、科学系の雑誌・書籍の出版や新聞とか。理科の教科書・参考書を作成する出版社も思案しましたね。

 その中で、新聞社に興味を持って。

— 新聞記者という職種にですか?

山本:新聞記者志望の人は、マスメディア、報道に関心がある文系の学生が多いと思います。でも私はそうではなく、理工系で社会と関わりを持つ職として、「新聞記者という選択肢があるのか」と気づいたという感じです。

 だから、一般紙よりは専門紙。専門紙の中では産業全般を対象にして比較的、幅の広い日刊工業新聞がいいなって思って。結果的に、その判断が、自分にはよかったと思っています。

— その時の選択が正しかったんですね。

山本:傾向として、「周囲がいいと言うもの」より「自分がいいと思うもの」を大事にする、選ぶという意識があるかもしれません。新聞記者を考える時に、そういう軸が自分の中にあって。

— 学生の頃から、そういう意識を持っていたんですか?

山本:そうですね。でももっと小さい頃はどうだったかな。

 優等生は一般に「何でも、がんばって、なんとかやっちゃう」面があるでしょう。成績も悪くない。選択肢が多いのはよいことだけど、その結果、進学や職業を考える時、周囲の期待や意見に押されて決めてしまう。

— 何でも器用にこなせるけれど、それは「好きなことではない」みたいな感覚ですね。

山本:「好き、嫌い」や「できる、できない」だけでなく、「自分らしく自然体で力が出せて、ハッピーなものは何か」っていうのを考える必要があるかなって思います。

— その財団、教育、出版とか新聞業界を考えたのは、どういう経緯からですか?当時、ご自身で思いついたんですか?

山本:「思いついた」に近いですね。

 それぞれの業界で仕事されている方に話をうかがいました。科学技術系の出版では大学の先輩も探せましたし。今の日刊工業新聞社でも、若手女性記者に話を聞くチャンスを設けてもらいました。

— 実際に話を聞いてみてどうでしたか?

山本:マスメディアを候補に考えた時に、私は体力がないことが一番ネックだと思っていました。
 
 それで、一般紙は厳しいなというのがありました。専門紙は会社向けの新聞なので、土日に叩き起こされて事件現場に出向く、といった取材はあまりないという話で、「私にもできるかな」と思ったんです。

 あと、新聞記者になれなかったとして、社内にはいろいろな部署がありますよね。イベントや展示会、本などの局もあるし、広告営業のセクションもあるし。どこに配属されても、何かしら科学技術に関係しているということで、この会社を選んだのです。

— 新聞記者でと確定していたのはなかったんですね?

山本:採用は全社一括でしたから、わかりませんでした。また最初から、「これだけ」って対象を狭めない方がいいとも思っていました。これは仕事一般についてそうですね。

 「自分に合ったこと」っていっても、必ずしも最初からピッタリ合うものが見つかる訳ではなく、経験したり挑戦したりしながら、見つけ出していくんだろうなって思いますね。

— マスコミって人気があって、しかも新聞社に入るって、すごい倍率をくぐり抜けてっていう印象があるんですが。

山本:大手の一般紙の競争率はとても高いと思いますよ。日刊工業新聞は専門紙なので、それほどではないのですが、文系のジャーナリズム志望の方が多いことは一般紙と同じですね。

 そういう意味でいうと、わたしは理工系の研究職から志望を変えてきていたので、他の方と違っていて。一般紙は入社試験も受けませんでした。

— 思い描いたストーリーで、上手く進んだ印象ですか?

山本:「専門紙の新聞記者が最適かもしれない」と見つけたことは大きかったです。自分の核となるものを把握できた。そこに達するまでは悩んだけれど、その後はまあ上手く進んだといえるかな。 

 当時はバブル期の終わりだったので、全体として就活が大変というイメージではなかったです。もっとも、研究室の仲間は、メーカーの研究職に引っ張られて実質、無試験で決まっていく中、わたしは採用試験の準備をしていましたが。

 あの頃は入手できる関連情報が限られていたこともあるんですけど、就職活動で、「実際にその仕事をしている人に会って話を聞く」というのは、すごくいいなって実感しました。

— OB,OG訪問みたいな感じですね。

山本:ウェブで検索して気になる企業を調べることも必要ですが、職業を実感する点では、当事者から話を聞き出すのがおすすめです。仕事が格段にイメージし易くなるし、不安に思っているところも解消できますから。

 ただ、そこで会った人は、その会社のひとつのモデルでしかないことに注意が必要です。できれば複数の人に話を聞くようにしたいですね。

— 山本さんも、話を聞いてみて、想像していた新聞社の仕事と、イメージが合致して選んだってことですよね?

 
山本:そうです。「これなら、体力がない理工系出身の私でも、出来るかな」って心が固まってきました。

 一般紙の場合、記者はやはり体力も必要で、常にとパワー全開で進んでいく感じ。一般的には、大手の一般紙の方がいいって周囲のだれもが言うでしょう。でも、「自分らしく働くことができるのかな?」って不安に対して、私は別の選択をしました。

 「自分に合っていて自然体で力が発揮でき、幸せだと感じられるか」という視点は、キャリアや生き方を考える上で、とても大切だと思っています。


episode2 公開しました!!
つづき

感想を送る

このコンテンツの最初にもどる

山本 佳世子さんプロフィール

山本佳世子さん

山本 佳世子(やまもと かよこ)さん

1964年生まれ。
現職は日刊工業新聞社論説委員・編集局科学技術部編集委員。
東京工業大学ほか非常勤講師。
お茶の水女子大学理学部卒。工学修士(東京工業大学)。
博士(学術・東京農工大学)。
記者として活躍しながら社会人で博士号を取得。
科学技術報道(化学、バイオなど)、
業界ビジネス報道(化学業界、飲料業界)担当を経て、
現在、大学・産学連携、文部科学行政を担当。
産学連携学会:業績賞受賞(2011年度)。

 

<著書>

研究費が増やせるメディア活用術(丸善出版)

理系のための就活ガイド(丸善出版)

8.「仕事の一般化」そして「経営者とお客様の視点」

8.「仕事の一般化」そして「経営者とお客様の視点」

— それは、商社時代、疑問に感じていた部分ですね。

齊藤: そう、顧客視点。大切だよね。

          常に、「会社の経営の立場」、「お客様の立場」

          それぞれの視点があったので、何か議論になった時は、

          必ず、そのロジックで考えるようにしていたんだよね。

          これは、たぶん小売じゃなくても絶対通じることだと思う。

          その2点かな。

— 「仕事を整理して一般化すること」と、「社長とお客様の視点を持ち考え行動に移すこと」、この2つですね。

齊藤: 仕事を、誰でも引き継げる形にする。

          誰でも出来る「仕事の仕方」を作っていくこと。

          そして、経営者とエンドユーザー、

          それぞれの視点で考えて、仕事をしてきた。

          そうすることによって、

          もう、その会社でしか通用するルールではなく、

          どこに行っても応用することができる、概念化できている。

          今まで、自分がやってきた仕事のノウハウを体系化することで、

          新しいクライアントに提供することができる。

          しかも、常に色々なお客様と関わることで、

          新しいインプットがされていくので、

          過去のものをブラッシュアップして、

          次のクライアントに提供することが出来る。

— インディペンデント・コントラクターとして必要な視点ですね。

齊藤: そうですね。

          あとは、クライアントがリテール対象なので、

          「お客さんだったらどっちを選ぶか」

          この視点で考えることによって、自然と結論が出てくる。

          そういう仕事をして来たからこそ、

          クライアント企業の担当者にも理解しやすく伝わる。

          その人が、もし転職とかで、働く場所、会社が変わった時にも

          「役立つ視点ですよ」

          って、そういう形で情報を提供することができる。

— なるほど・・・・その他に仕事をする上で心掛けていることはありますか?。

齊藤: 意識していることとしては、

          自ら、どんどん情報をオープンすることによって、

          次にインプットするためのキャパを

          「自分の中」に持つこと、みたいなイメージかな。

          その繰り返しをすることで、

          自分が自然と成長していくと思うし。

          これは、独立を目指している人でなくても、

          会社の中で仕事をする上でも、大切な視点だと考えていますね。


          *IC(インディペンデント・コントラクター)とは、

          サラリーマンでも、事業家でもなく、

          フリーエージェントである働き方。

          “期限付きで専門性の高い仕事”を請け負い、雇用契約ではなく

          業務単位の請負契約を“複数の企業”と結んで活動する

          “独立・自立した個人”のこと。


episode9 公開しました!!
つづき

感想を送る

齊藤孝浩さん 最初のエピソードから読む

このコンテンツの最初にもどる

10.華やかな経歴の裏の気持ち

10.華やかな経歴の裏の気持ち

— 経験を積む中で、今考えると「キャリアの危機だった体験」があれば紹介してください。

齊藤: 商社時代に、出向先のアパレル企業で働いていた時かな。

          ひとりで行って、生産と物流って、自分しかできない状況で。

          

— そうなんですか?すごく充実して、華やかな印象ですけど。

齊藤: 自分が、しっかりしないとビジネスが止まる、

          そういう状況に置かれていて。

          誰かに泣きつけばいい、とかいう状況ではなかったので。

          みんな、それぞれプロとして集まって、それぞれの仕事を全うする、

          という状況下で仕事をしていた。

          そんな中に、入社して3年目で入ったので。

          それは、自分にとっても、かなりなプレッシャーで。

          

— それは、自ら手を挙げていったんですか?先輩の仕事の引き継ぎとかではなく。

齊藤: いや、ぼくが初めで。

          あの頃、商社でブランドビジネスを立ち上げるのが、流行っていて。

          それで、そういう話を持ってきて、やるっていうことだけが

          決まっていた。本当に、それだけが決定していて。

          あとは、全部、ひとりで一から作らないといけない状況で。

          自立して自分でやらないと、誰も助けてくれないし。

          

— そうだったんですね。

齊藤: 本当に、それがあったから、

          その後の色々な経験にも耐えられた気がする。

   

— では、最後に読者のみなさん、特に若い世代の方々にメッセージお願いします。

齊藤: 「未来の目標から逆算すること」かな。

          10年単位とか、何歳まで働くか。

          それを決めて、70歳、75歳まで、働くとして。

          まず、その時点でどうしていたいか、どうなっていたいのか。

          それを考えて、描いていくと、直近に何をしないといけないか、

          考えやすくなるでしょう。

          例えば、老後はハワイのリゾートで暮らしたい、と考えたとして、

          それには、いくら稼がないといけないかとか、

          どんな人脈を作らないといけないとか、

          具体的に考えられるようになるから。

          計算すると、分かってくるでしょう。

          今の会社にこのまま勤めていていいのかとか、資産運用とか。

   

— 逆算して、具体的に考えていくんですね。

齊藤: 未来の目標から逆算する。

          「今、何しないといけないか」って考えるのは難しいでしょ。

          将来何したいですか、どうしたいですかと考えて、

          それによって、今の生き方を考える。

          人生の最終ゴールのような先まで考えられなくても

          10年後どうなっていたいか、

          あるいは3年後何をしていたいかでもいい。

          ドラッカーの言葉で、

          「何によって、覚えられたいか」ってあるけど、

          誰かが、じぶんを紹介する時に、

          「この人は◯◯です」って、

          どう説明されたいか、どういう自分になりたいか。

          「3年後に、こういう仕事をしていたい」って、

          それを見つけて、専門家になることを心がけてきた。

          キーワードを見つけて、覚えられるためには、

          専門知識や実績、経験が必要で。

          それには、やっぱり、3年は必要だと思うので。

          パーソナルブランドを確立するためには、3年後を意識して

          今から準備することが大事だから。

          なので、3年後に「何によって覚えられたいか」

          を意識して種まきをすることが大切。

          

— それは、会社に勤めている人もですよね?

齊藤: うん、それは社内でも必要。

          例えば、3年後にニューヨーク駐在員になりたいとか。

          そうだとしたら、社内の誰からも、「あいつしかいない」って

          言われるために何をしたらいいかとか。

          

— 今の話に関係して、齊藤さんは将来どうなっていたいなって考えていますか?

齊藤: そうですねぇ。

          ワークショップで、「子供たちとか若い人たちに向けて

          話をしている老人になった自分の姿」ですね。

          それって、今の仕事に関係しているものではなくて、

          もっと働き方とか、生き方とか、自然との関わり方とか。

          それを教えられるきっかけを作るために、

          55歳でセミリタイヤして、2年間海外で過ごそうと計画している。

          それまでの2年間は、日本を離れても大丈夫な、

          仕事のやり方を考えたり、お金の準備をしたり。       

          2年間で8都市、同じ場所に住み続ける予定で、

          香港とニューヨークは決めているんだけどね。

          そこで、長期滞在ホテルかアパートを借りて、

          生活者として住んで、体感してみたいと思ってる。

          

— すごい、具体的ですね。それは今の仕事と、共通点ありますか?

齊藤: 今も、年に1回、海外にいっていて。

          その主な目的は、ファッションストアをみることだけど。

          文化とか社会、働くこと、仕事の価値観とか、

          そういうものを、感じ取ってきたいという気持ちが強くなった。

          いわゆるキャリアについてですかね、そういうのを。

          毎年、続けているリサーチ旅行というのは、

          その都市探しも兼ねて、いろいろ見ている。

          ロンドンや、今回行ったストックフォルムも、いいなとか。

          先進国にいって、日本人の働き方とか、生き方とか、

          商社にいた時は、もので日本を豊かにしたいと思ってたけど、

          それを今度は、ハードではなく、考え方とか

          ソフトの部分で、提供したいと考えている。

          比較的、独立心を持った国の人とか、

          台湾とか、参考になりそうだし、興味あるよね。

          

— そうだったんですね。

齊藤: 将来の絵を描くにあたって、

          影響を受けたものが、実はもうひとつあって。

          沢木耕太郎のショートショートで、

          「彼らの流儀」っていうのがあって。

          人生の中で、実現したい絵を持っている人たちの

          「ひたむきな生き方」、「人生の裏側」を綴っている本で。

          それを読んで、

          「自分はどういう絵を書きたいかな」と思った。

          それで浮かんできたのが、自分がもう白髪になっているんだけど、

          若い人や子供の前で、ワークショップをしているような。

          そんな老人のイメージが頭の中に、実はあるんだ。

          だから、それを目指して生きているって感じ。

          単純というか、思い込みがすごいんだけど。

          

— こういう形で、お話を伺わないと想像できない未来像でした。でも、着実に、準備が進んでいる気がします。今日は、貴重なお話を伺うことができました。本当にありがとうございました。

齊藤孝浩さんプロフィール

   

   

一話に戻る

このコンテンツの最初にもどる

9.SNS全盛の時代に乗って

9.SNS全盛の時代に乗って

— 今、色々お話していただいた中で、「転機だった」って思うエピソードありますか?

齊藤: アメリカで偶然出会った、

          ICという働き方を実践していたおじさんの存在かな。

          その経験がなければ、その働き方を知らなければ、

          小資本で独立して在庫抱えて、今ごろ苦しんでいたかも知れないし。

       

— しかも、その出会いの瞬間は、その働き方を探していた訳でなく本当に、偶然だったのですよね?

齊藤: うん、そうでした。

          その時は、「へーっ」て感じで聞いていた訳だし。

          あともう一つは、ICとして働き始めて、

          インターネットを使うことが当たり前になってきたこと。

          特にブログやSNSの広がりかな。

          これは、すごく大きく影響していると思う。

          自分みたいに、ひとりで仕事する人たちも、

          大企業と同じ情報発信ツールを手に入れることが出来た。

          

          それまでは、口頭で伝えることによって広がりを作って、

          偶然の繋がりを呼び寄せることが必要だったけど。

          そうやっって、自ら発信をしていることで、

          周りから、ふっと、ご縁を作ってくれる人が現れる。

          そういう環境を、実際に行動することで作り出していたんだけど。

   

— それには、スキルだけでなく、行動力や人脈も必要でしたよね。

齊藤: うん、そうでした。       

          それが、ITを通して、SNSを活用することで、

          その発信した内容の普及が、加速度的に広がっていく。

          あの人、こういうことを考えているんだなって、

          独立した人が、情報発信する環境が、大きく変化して。

          自分の縁とか夢を引き寄せるスピード感が、

          格段に、アップして来た。

          そういう意味では、ICとして働くことは、

          以前より、アドバンテージが上がっていると言えるかな。

  

— 伝えたり発信するためには、自分の夢とか、やりたいこと、考え方を、より明確にしなければいけないとも思うのですが。

齊藤: もともと、将来こういうことがしたいから、       

          どういう人脈が必要か、どういうスキルやノウハウが必要か。

          そういうことは、意識して行動していたかな。

          で、それを促進してくれるインフラが、SNSだと思う。

  

— ICとして継続して活躍していくうえでSNSの存在は大きかったということですね。これ以外に、知識や情報の更新をする上で心掛けていることはありますか?

齊藤: 今やっていることや、提供しているノウハウは、       

          すべて、クライアント企業に渡していきたいと考えている。

          自分はその空いた部分に、インプットをしていきたいなって、

          そういう意識が強くあるので。

          仕事って、3年周期で周っていると実感していて、

          その、3年後に新しいことを始めるには、インプットが大切で。

          

— 3年周期ですか?

齊藤: そう。

          まだ、気がついていなかったり、専門家がいなかったり。       

          それを見つけて、ブログやSNSで発信して。

          それが、ちょうど3年の周期で繰り返される感じ。

          そういう視点で、情報を毎日意識してみていると、

          なんとなく、目に入ってくるようになるんだよ。

          新聞などのメディアで、記者が新しく使う言葉や、

          海外での出来事など、早いところに目をつけて、

          話題にしている人たちからの情報に、

          自分なりの、考えや情報を付け加える。

          それが、積み重なっていくことで、

          自分自身が、まだ認知されていない新しいことについての

          専門家になれる可能性が高くなる。

          特に、ブログなんかのオープンな場所で発信していると、

          その分野に関しては、あの人が詳しいとか、専門家じゃないかと。

          「なりたい自分になるための近道」

          というか、ツールという感じで、うまく活用してきた。

          そして、それを3年周期で繰り返して来たと思う。

 

— それは、いつ頃気がついたんですか?

齊藤: 2サイクルくらいしたところで、気がついた。       

          あとは、将来こういう風にしたいな、と思ったことを、

          そればっかり書いていたら、その仕事が来たり。

          独立して、2年目からブログ書き始めて、

          6年目くらいで、そのことがはっきりしてきた。

          ちょうど、世の中の流れと合致していた、というのもあるかな。

          最初は、在庫管理のこと、次は日本のSPAのこと。

          それで、そういうことに興味のある人が読んでくれ始めて。

          その後、外資のH&M、ZARAとか、

          ファストファッション系に移って。

          それで実際にお付き合いさせて頂きたいなと思っていた

          潜在クライアント企業さんの方からお声がかかって、

          ご契約させていただくことができたり、

          本を書くきっかけになったり。

 

— なんで、これが次に来るって、見つけられるんでしょうか?

齊藤: 一番は、新聞3紙読んでるから。       

          ネットだと、自分から見に行くでしょう?

          自分のペースで、見に行くというか。

          

— 今、購読者が減ってる状況ですけど。新聞なんですね。

齊藤: 新聞は、どんどん来ちゃう。

          読まないと、溜まっていっちゃうでしょ。

          この経験は、商社にいた頃から続けているんだけど。

          結局、商社時代に、よりリテール志向になったのも

          日経MJ、読んでいた影響もあったと思うし。

          小売にいた時も、切り抜いてコピーとって回覧したり。

          スクラップして、取引先の会話にも使ったり。

          それを独立してからは、社内でなくプログというツールを使って

          世の中の人たちと共有する、という形に切り替わっただけという。

          

— そういう感覚なんですね。

齊藤: 情報のシャワーを、無理やり浴びるというか、

          そういう環境に、自分を置いておくというか。

          それで、気になった記事を切り取って、

          それに、もう一言、じぶんにはこんな意見やコメントがあるぞ、

          っていうのと一緒に紹介する形で、ブログの記事にすると、

          同じように、記事に興味持っていた人が読んでくれたり、

          ブックマークつけてくれたり。

        

— ICとして、独立プロフェッショナルとして大事なことって何だとお考えですか?

齊藤: ICとして独立して仕事をする上で必要なことは、  

          じぶんから「専門家として語れ」、「名乗れ」と。

          初めは、誰も言ってくれないんだから、そんなこと。

          そう自ら名乗ることで、あの人はこの分野の専門家なんだと、

          認識してもらって、読者になってくれる。

          それが、パーソナルブランディングの基本であって、

          専門家になるということが大切。

          新聞が、まだ誰も気がついていないところで、

          先のキーワードを取り上げる。

          そのキーワードを、その後、複数紙で取り上げる。

          マスに降りてくるのは、たぶん3年後だから、

          それまでに、そのことについて、じぶんで色々調べて

          発信していくことで、その道の専門家になれる。

          

— 日々の積み重ねですね。

齊藤: これは、会社勤めしていても、同じことだから。

          ネットでニュースを読める時代だけど、

          絶対、偏りが出てきちゃうから。

          やっぱり、新聞広げて読むということで、

          キーワードが、向こうから飛び込んでくるというか。

          まあ、「アラートかけておく」みたいなイメージだけど。

          情報を強制的に受ける、ひとつのペースメーカーみたいに

          新聞を使うと、嫌が応でも、インプットができる。

          たくさんのシャワーを浴びていると、

          そこから、重要な情報を選ぶ術を身につけることができるんだよ。

続きを読む: 9.SNS全盛の時代に乗って

7.インディペンデント・コントラクターへの第一歩

7.インディペンデント・コントラクターへの第一歩

— 新聞記事といい、おじさんといい、すごい偶然のタイミングばかりですね。

齊藤: うん、そうですね。

          その日経MJの1面記事を見て、

          アメリカで出会ったおじさんを「ハッ」と思い出した。

          だから、すごくICの仕事ってイメージしやすかった。

          あとは、オーナー企業で働いた環境がすごく貴重で。

          今、オーナー企業とばかり仕事をしているんだけど、

          組織の中では、どう転んでも、創業者である

          「オーナーを超えること」ってできないんだよね。

          その会社の癖というか、そのカラーがあるし、

          会社は、オーナーのものだし。

          やっぱり会社を維持して大きくするには、清濁呑み込めて。

— きれいごとだけでは、やっていけないというイメージですか?

齊藤: そうですね。

          その辺も含めて、いろいろな人と付き合って、

          会社を経営していく必要性みたいな、

          実際に、とても近くで見ることができた。

          それで、そういうことを目にする度に、

          自分自身がたくさんの従業員を抱える経営者になるというより、

          そんなリーダーシップを持った経営トップの意を汲んで

          成長を手助けする仕事をする方が

          自分には向いているのではないかと思った。

          「最強のナンバー2になる」みたいなイメージで。

          しかもひとつの会社ではなく、多くの企業に貢献できれば……。

          「そんな独立のしかたもありかな」と。

— あのおじさんの「働き方」ですね。

齊藤: うん。それが、「ICとして独立する時」に考えたことかな。

          さっきのおじさんとの経験もあって、その形にしようかなと思って。

          それで、会社に告げたら、

          社長が「最初のクライアントになっていいか」ということで

          申し出てもらえて。

          他にも、挨拶に行った取引先で、興味持ってくれたところがあって。

          だから独立時の収入は、サラリーマン時代の6掛けだけど

          ビジネスは始めることができた。仕事が軌道に乗るまではと

          思って貯金もしていたけれど、大丈夫だった。

— 「どういう形でスタートするか」はとても重要ですね。

齊藤: 独立する時は、その前に勤めていた会社との

          関係性はとても大切。事業会社として独立する時も同じで、

          やっぱり、自分を必要としてもらえるかどうか。

          というか、意識してそういう仕事の仕方をすること。

          あとは、

          「その会社でしか通用しない仕事の仕方」はしないこと。

          他の会社でも通用する形を意識することが大切だよね。

— それって、一つの会社でしか働いたことがない人が聞くと、ちょっとピンとこないというか、どうすればいいか分からない部分だと思うのですが。

齊藤: そうかもしれない。

          でも、こういう意識を持つことはとても大切だと思う。

          どうしてそう思うようになったか考えてみると、

          ひとつには商社時代に、しかも若いうちに出向して、

          また戻って来る、という経験をしたことかな。

          自分の仕事を、後任に渡さなければいけないので、

          「仕事をマニュアル化する」という作業を、

          同期よりはたくさん経験した。

          これは大きかったと思う。

— 業務手順の整理とかですね。

齊藤: そうそう、仕事っていうのは、誰かに引き継ぐのかなって。

          異動があれば、その度に引き継ぎが発生する環境で。

          でも、ちゃんとできない人は、後任と仲悪くなったりして。

          でも、ぼくは感謝されるくらい、

          きちんと引き継ぎ書類を作ることを、心がけていたのね。

          そういう書類を何度も書いていたので、

          「誰でもできる仕事にしなければいけない」

          「自分じゃなくてもできる仕事にして行かなくてはいけない」

          っていう思いが強くあって。

— それって、今でこそ大切だと分かると思うのですが。自分しかできないこととして、「情報を囲い込むこと」で、社内での存在意義を高めようっていう考え方も結構ありましたよね。まだ、そういう空気がある時代だった気がしますが、それと全く逆の発想ですね。

齊藤: そうですね。

          なんか3年目で異動でしょう、5年目でまた戻ってきたりして。

          そうすることが必要だったし、

          そうすることで「次の新しい仕事に挑戦できる」というか、

          そっちの方が大きかったね。

          そうやって、引き継ぎをした相手に引き継ぎ書が、

          分かりやすいって言われると、すごく嬉しくなっちゃったりして。

          ITが、まだそこまで一般的ではない時だったので

          全部手書きで、集計表を使ったりして。

— ちょうどITが仕事でも欠かせなくなってきて、それまで情報通が社内で重宝されていたのが、だんだん変わっていく過渡期だったと思うのですが。その時点で、業務の効率化とか、一般化に気がついて、実践していたということなんですね。

齊藤: 単に飽きっぽくって。

          自分が、その仕事をできるようになっちゃうと、

          早く誰かに渡したくなっちゃうというか。

          その頃から、たぶん芽生えていたかなと思う。

          あとは、小売にいた時に身についたことなんだけど、

          何が正論かというと、オーナーとお客さんの考え。

          だから仕事が面倒臭いとか大変とかそういう現場の声も、

          「会社のトップだったら、こう判断するよね」

          「どうしたらお客様にとって最適になるだろうか?」

          という視点で話しが出来ると、

          みんな、文句の言いようがないというか、

          納得感があるというか、

          そういう視点を、持つことが出来るようになったことが

          大きかったね。


          *IC(インディペンデント・コントラクター)とは、

          サラリーマンでも、事業家でもなく、

          フリーエージェントである働き方。

          “期限付きで専門性の高い仕事”を請け負い、雇用契約ではなく

          業務単位の請負契約を“複数の企業”と結んで活動する

          “独立・自立した個人”のこと。

続きを読む: 7.インディペンデント・コントラクターへの第一歩

齊藤孝浩さんプロフィール

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
Taka Saito

齊藤 孝浩(さいとう たかひろ)さん
有限会社ディマンドワークス代表
在庫コントロールを中心に急成長するアパレル企業の
コンサルティングを行う。
1965年、東京都出身。明治大学卒業後、総合商社、ベンチャー企業、
国内アパレルチェーンを経て、2004年に独立。
著書に『人気店はバーゲンセールに頼らない』(中公新書ラクレ)
『ユニクロ対ZARA』(日本経済新聞社)がある。
特定非営利活動法人インディペンデント・コントラクター協会 理事長

インタビューEpisode_1

<関連リンク>

有限会社ディマンドワークス

特定非営利活動法人インディペンデント・コントラクター協会

ファッション流通ブログde業界関心事

<著書>

人気店はバーゲンセールに頼らない』(中公新書ラクレ)

『ユニクロ対ZARA』(日本経済新聞社)

5.あこがれのリテール業、理想と現実

5.あこがれのリテール業、理想と現実

— 商社を辞めてから、見つけたんですね。

齊藤: まぁ、結果的にはね。

          無事に、アメリカで、1年間、働くってことが決まって。

          その時点では、やっぱり自分のプランとして

          「40歳で独立したい」と考えていて。

          しかも、それは事業会社を起こすことをイメージしてた。

  

— でも、すぐに独立はしなかったんですね。40歳までには、まだ時間もあったからですか?

齊藤: そうですね。

          1年経って、帰国することになって、

          アメリカで買い付けの手伝いしていた小売チェーンに入った。

          そこのオーナーでもある社長が、

          帰国するのを聞きつけて、電話を掛けてきてくれて。

          外資系の面接受けたりし始めていたけど、

          もともとリテール、小売業に身を投じようと思って行ったんだから、

          いいかなって、5年間って決めてやってみようと思って。

          社長にも、5年後には独立したいって告げて入社した。

  

          でも、そこからの5年間って、

          商社にいたとき以上に、忙しくなってしまって。

          小売は365日店頭が開いているので、

          本部にいても、お店が開いているのであれば、

          それを気遣うって、当たり前のことで。

          だから、本当に、休み無しで働いていたね。

 

— 商社時代もかなりハードでしたけど、みなさんもそういう感じで仕事している社風だったんですか?

齊藤: どうだろう。それなりに、休んでいたと思う。

          今の時代と違って、「絶対休み取りなさい」って

          強制されることもなかったけど、ぼくは中途入社だったので。

          結局、追いつくためには、みんなよりたくさん働かないとって、

          そう思っていたので。

          休みの日は、売り場に出たり、まだ、みんながあんまり

          見てなかったデータを使って、分析してみたりとか。

          そういう時間をたくさん取って、追い着こうとしてた。

          結果として、実績を出して成果を認められて、

          2ヶ月で、本部バイヤーに呼び寄せられて、

          本部のバイヤーとして仕事している間に、

          在庫コントロールに成功して。

 

— アメリカから戻ってきた時は、特別待遇ではなく、店舗からスタートしたんですか?

齊藤: そうですね。

          でも、まあ経験者としての採用だけど。

          まずは、店舗には立たないといけないって、

          そういうルールはあったかな。

          最終的には本部での仕事っていうのが、前提にはあったと思うけど。

          上手くいった在庫コントロールのプロジェクトを

          今度は、全社的に取り入れるために、専門の部署を立ち上げて。

          在庫が減って、粗利が増えて。

          それが、評価に繋がって商品部長、営業部長と昇進できて、

          最後は、役員まで。

          

— すごく理想的なキャリアですね。

齊藤: 本部での仕事に戻るんだろうと、思ってはいたけれど。

          でも、店舗で販売の仕事をしているときは、それが面白くて。

          毎日、お客さんにいろいろなもの買ってもらったり

          売り場の工夫したり。正直、呼び戻されたときは、

          「えっ、もう少し店舗にいたいな」って気持ちが強くって。

          でも、異動の時期で、このタイミングで戻ってきてって言われて。

   

— 好きなんですね。販売が。

齊藤: まあ、家が店だったし、自分でフリーマーケットやったりね。

          でも、まあ本部採用を前提とした中途採用だったので、

          「時期が来た」と思い本部に行きましたね。

 

— 憧れの小売業での仕事は順調に進んだんですか?

齊藤: いや、その後、営業部長をしていたとき、

          4人の部下、全員年上って形になって。

          2人が中途採用で、2人が生え抜きで。

          その中で、やり辛さを感じて、そこですごく苦労した。

          古参の方に、みんなやっぱり付いたりして。

          そのことが影響してうまく行かずに、それが原因で降格されたり。

          あのときは辛かったけど、今考えると仕方なかったというか、

          もっとうまく付き合えたかな、っていうのはある。

          会社を良くするために曲げたくないという話もあって、

          それが売り上げにも影響して。責任を取って降格となって。

          それが、挫折といえば挫折だったね。

 

— それは、今だから言えるけど、ショックな出来事として残っているんですか?

齊藤: そりゃあ、ショックでしょ、降格って。

          でも、いろいろな組織で働いていると、そういうことがあるし。

          会社のためにならなくても、個人のためになることって

          やっぱりあって。

          そういう政治みたいなことって、組織のなかにはあるんだなと。

          そういうことに対して、改めて認識できた経験というか。

 

— そういうことがあると、会社自体に対して、もういいやって、気持ちが出たりしませんか?

齊藤: それは無かった、別にモチベーションがあったので。

          その会社を「将来こうしたい」と、思っていたのと、

          部下で、応援してくれる人たちもいたので。

          この人たちの働く環境を改善できないかなとか、

          やるべきことはいろいろあったので。

          それもあったので、そこで仕事を続けていくことは

          平気だったというか、大丈夫だった。

 

          ところが、降格した立場ながら会社の業績を戻して、

          次の改革に取り組んでいた時にある人事異動があって。

          社長の指名によって抵抗勢力の古参のリーダー格が

          社長の指名によって、自分が改革を進めようとしていた

          店舗現場と自分の間に入ることになった。

          これまでの成り行きからすると、この体制では

          「自分がやろうとしていた改革が絶対に進まなくなる」

          と直観的に思った瞬間、

          何か張りつめていた糸がぷつんと切れた感じがした。

          常に走り続けて、いろんなことがあったけど、

          この会社で自分が貢献できると思うことは一通り形にして、

          引き継いでひとつの区切りができていたし。

          偶然かもしれないけど、

          その会社で働き始めて5年が経とうとしていた。

 

— ちょうど、5年と考えていたタイミングに合致したんですね。

齊藤: ふと振り返ると「40までに独立しよう」と

          そう思っていたことを、思い出した。

          5年経ったこともあったけど、

          「もう少し、家族との時間を持ちたいな」

          と、思い始めていた頃でもあって。

          それを誰にも言い出さずに考えていたら、

          「自分の専門性を活かして

          個人で独立して複数の企業と仕事をする働き方がある」

          というインディペンデントコントラクター(=独立業務請負人)協会

          (以下IC協会)の新聞記事が

          日経MJの1面に大きく掲載されていたんだよね。

          それを見た時に

          「こういう独立の仕方があるんだ」って初めて知った。  

          事業会社ではなく、

          個人でいろいろな会社をサポートする独立の形があることを。

 

 


          *IC(インディペンデント・コントラクター)とは、

          サラリーマンでも、事業家でもなく、

          フリーエージェントである働き方。

          “期限付きで専門性の高い仕事”を請け負い、雇用契約ではなく

          業務単位の請負契約を“複数の企業”と結んで活動する

          “独立・自立した個人”のこと。

続きを読む: 5.あこがれのリテール業、理想と現実